和の精神と「やわらぎ」

「和の精神」に代表される、日本の精神文化を表す漢字一文字といえば、「和」である。「和」という字は、平和とか和親とか調和とか「ものごとの区別が曖昧」な意義で解される。それが元となり、日本人の精神性・建築様式・自分と他人との関係・は「調和」に重点がおかれるのだろう。

ところがふと、この「和」という語は「やわらぎ」と読んでもよいのではないかと時折考えるのである。その「やわらぎ」は一つの日本人の心持ちの土台となる精神性であるのは勿論のこと、日本の建築様式や道具など、物質的方面にも代表されるといえるのではないだろうか。

龍安寺の石庭に代表される、「日本の建築」はヨーロッパ的なシンメトリー(左右対称性)ではなく、一見無秩序には見えるが、その奥には調和のとれた精神性に支えられたアシンメトリー(左右非対称性)を好む。この建築様式は、先ほど述べた「やわらぎ」の精神に由来するのではないだろうか。直線や直角だけではなくて、その間に自然の曲線を入れると、その中の空間にいる人たちも自然とその気を吸うものであろう。「やわらぎ」は硬直や直線の反対で、曲線または弧線である。硬直や直線ばかりの場所では厳粛性を感じるので、こちらの心も「つっぱる」気分になる。そのような精神性は日本の建築には禁物である。

四角の建築のみならず、丸みを帯びた柱などが存在すると単に「無機質さ」を破るのみならず、人の心の「こわばり」を緩ませる。自然に幾何学的な物体はない。自然はこの点で抽象的である。日本庭園などは、人間のこしらえたものではあるが、抽象性をもっている。私は数年前に、京都の龍安寺を訪れた折に石庭を鑑賞した。石庭は、十五個の岩がアシンメトリーに配置されており、一見無秩序に見える。が、それは現代人の勝手な印象に過ぎない。日本の古来の人々は「一見しただけでは分からない、詩的な庭園」を好んだのではないか。西洋的なシンメトリーを象徴させる庭園は嫌う。龍安寺の石庭は全て自然性の材料を使ってあると思う。そこに、「やわらぎ」の心を思い起こさせるに役立つ。

龍安寺の石庭に限らずに、古い骨董品などを見た趣にも「やわらぎ」を感じる節がある。新しいものには何もなく、「けばけばしさ」がある。時代を経るというのは、その「けばけばしさ」の消耗を意味する。古いというただそれだけで、その物に対して親しみを覚えさせる。それは、我々が全て「過去の産物」であるからかもしれない。「懐かしい」などという言葉があるように、人は等しく過去に「あこがれ」を持つものである。未来に対してもあこがれを持つが、まだ踏んでもいない未知の領域なため、「一種の危惧」がある。これが希望である。過去は過ぎ去った産物なため、不安はない。そのため、自由に回顧することができ、自由に意味を見出すことができる。過去に「あこがれ」は無いが「親しみ」はある。「親しみ」は即ち「やわらぎ」である。

この「やわらぎ」こそが日本全体の性格ではないかと思われる。日本の気候、風土は「やわらぎ」に満ちている。日本は湿潤な気候であり、そのせいか自然の情景も潤いと柔らかさを持っている。日本の原風景を見たあの時の「瞬間の感趣」は言葉に得がたい。その情景を表現しまいと、私の嗜好の限りで思索を尽くした言葉が「やわらぎ」だった。








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