書と美
私は少年時代の6年余りを滋賀で過ごした。滋賀は湖岸の古蹟に富んだ美しい街である。大津の隣には京都が属すが、京都とは古都というには余りに都会らしく、日本的な「間」の精神的な空想の働く余地を与えない。大津にはなお廃墟らしい所が多い。大津の坂本を西に見上げると、千年の太古からの霊峰である比叡山を拝むことが出来る。比叡山は、最澄が1300年前に建立し、小堂に籠り修行を行ったのが由来とされている。その威厳は現在に至るまで、脈々と受け継がれつつ、日本屈指の霊峰として日々参拝者が絶えない。
私もその一人として、比叡山を訪れた。長い階段を登り、延暦寺の寺院に入ると小学生から高校生まで書道の展覧会が古来からの本堂とそっと調和するかのように催されていた。目を配ると、楷書から草書から隷書まで、多様な書体の作品が一様に並んでいる。荒々しい書体の奥には上品な慎ましさが、上品な慎ましい書体の奥には荒々しさが、二つ対比して存在するかのような印象を受けた。
「書」とは如何なるものであろうか。芸術には「対象を客観的に表現する」ものと、「主観的な感情の内奥を表現する」ものと、即ち二種類ある。建築や絵画は前者に属し、音楽は後者に含まれる。建築の如きも感情の発露とは言い難く、実用的な側面が多い。その点、書道は何らかの対象を写すとかいうのではなく、自己の内奥の感情を一種のリズムに乗せて表すという点に置いて、後者に属するのではないだろうか。無論、音楽も自己の内奥の感情をリズムに乗せて表現するという側面では書道に類似している。しかし、音楽は時間に乗せて、「躍動的」にリズムを表すのに対して、書道は「静的」な形で紙の上に感情の発露を表現する。その静的な表現という面では建築に似ているが、建築の如く実用に捉われたものではなく、自由な生命のリズムである。つまり、「建築と音楽の中間」とも考えるべきであろう。「凝固する音楽」とも言えるであろうか。
リズムそのものほど、人間の自己そのものを表す芸術はない。リズムは我々の生命の本質である。建築や絵画や彫刻などの如く「対象に捉われる」こと無しに、我々の内奥の「形にならないもの」つまり、「心」そのものを表現する本質的に自由な芸術である。
それで書の価値というものは、いわゆる技巧と言うよりも、「その人自身」によるのではないかと思う。如何なる芸術もその芸術家自身の感情の発露でないことはあり得ない。建築や絵画や彫刻は科学的な構図を前提としなければ、洗練された作品は創造出来ない。しかし、書道に至ってはそのような客観的な制約が極めて少なく、自由な感覚に基づいて、線とか点とかより成る文字によって自己の内奥の躍動感を存分に表現するのである。そこに書道の美しさがある。
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