特別な桜
まだ冬と呼べる寒い頃、介護主任二人とケアマネと管理栄養士とで集った。
いよいよ口から食事を摂らなくなって施設でのお看取りを希望されている方のために。
おおよそ1年ほど前から少食になって行った。
お元気な頃はファミレスに外出に行ったり大好きなお蕎麦を食べに行ったりしていたとのこと。
入院したくない、施設で最後を迎えたいとずいぶん前に語っていらした彼女は、それまで何度も入退院を繰り返していたとのこと。
食べ物以外で好きなものは何だったんですか?ともはや口もきけぬ彼女の代弁を皆さんにお願いすると「桜の花がお好きでした。花見をとても喜んでくれていました。」と語ってくれる人が居た。
それならば、花見に行くことを目標に掲げ、毎日大事にして過ごしていただきましょう!と決めたのだ。
「・・・。それは無理なのでは?」と多くの人が言ったし、口に出さないまでもため息と共に下を俯く人も居た。「写真でも見せてあげれば良いのでは?」とも。
しかし、4月2日。本日は快晴。
施設は人員不足で喘ぎ、私も新人さんに指導しなければならない日でもあり、3人の主任さんたちの面談を請け負った日でもあり・・・皆さんも口々に「ああ、疲れた。」と。
いやいや、でも、でも、快晴だよ。桜もやっと咲いたよ。そして、この先は雨が多いんだってさ。
ドライバーさんに車を出して貰った。
小さな小さな身体をもこもこのカーディガンで包み、ベッドに寝ているのとあまり変わりないほど車椅子をリクライニングさせて車に乗り込んだ。
出発前に痰を沢山吸引して『行く?本当に行ってみる?』と問いかけると、彼女は静かにうなずいた。
かくして、しばらく走ったその道は、川沿いの背の低い桜の枝が道路まで伸びていて、車の窓をあければ、ほら、もうすぐそこ。顔の真近に桜の枝、桜の花が迫っている。
寝ころんだまま彼女が見上げると、目前に青空と無数の桜。
じーーっと眺めていた。食い入るように眺めてくれていた。
叶った。
あの冬の寒い日に交わした約束。
施設に戻ってまた痰を引いた。
彼女の瞼は再び固く閉ざされた。しかし、その口元は微笑みを浮かべていた。
3か月前の願いが叶った。
目を閉じている彼女にそっと囁いた。
「また行こうね。」
床頭台の上に水を張ったグラス。そこに小さな桜の枝を誰かが差した。
誰にお礼を言って良いのか分からないのだけど、感謝した。ただ桜を見れるという平凡で特別な日に。