不穏を治めるというのは思い上がりなのだから
酷暑で道端で倒れて大怪我。
それがきっかけで入所して来られる方もいる。
穏やかに時が過ぎていたが、ある日突然暴れ出す。それで「大変!ちょっと来て下さい!」と呼ばれてそのフロアに向かって走る。
男性職員の髪の毛を掴んで大興奮している方はこれまたガタイが良いお爺さんなので一際大騒動に発展する。
何を叫んでいるのかなあ?と思って、その聞き取りにくい言葉に耳を傾けてみると「わからなんだよおおおお!わからないんだよおお!」と言っている。
突然我に返ったらこここがどこか分からないわけだから、そりゃ怖いのだろう。それに頭にくるのだろう。それが分かって貰えなくてさらに怖くて頭にくるのだろう。
こういう時は怖がってはいけない。もちろん怒ってもいけない。怖がることも怒ることも同じだ。同じような緊張感が生じてしまう。決して相手と同じになってはいけない。病院だったらこういう時、こんなことを考える人すらおらず薬を打ったり縛ったりするのだろう。
でも、ここは特養なので「Aさ~ん~。」と声をかける。私のアホ面の中でも最も惚けたアホ面を作り『分からなくても大丈夫なんですよ。』とゆっくり繰り返す。普通はこんな返答じゃなくてここに来た経緯を説明するのだろうけど、そんなことは既に髪の毛掴まれている職員がやっているに違いないから。
「どうして?!」
だって、みんな、分からないから。みんな、みーんな、私も含めてみんな、何かが分からないんですよ。でも、大丈夫なんです。と横に腰かける。もう、一緒にジュース飲んじゃったりなんかする。
テンションが同じくらいにゆるんだところで、「道端で転ばれたんですよ。それでね・・・」と事情を説明する。一言いう度に「でも、大丈夫なの。みんな、何かが分からないものなの。」と挟みながら。
やがてニコニコ顔になって行く。「そうか。」と。
これ、本気で言っている。認知症だからと馬鹿にして言っているわけじゃない。私たちは皆何かにおいては無知なのだ。多少専門性のある分野のことを知っているかもしれないが、その分どこかが疎くなる。専門性が濃くなればなるほど、もてはやされていればいるほど、他のところがへんてこりんになるものだ。
それが分からない人がよく誰かとの会話で、おまえはトリビアの泉か?!と言わんばかりにマメ知識を披露したがる。一生懸命英語やフランス語を勉強する人もいる。(いや、全員じゃないよ。中には何かを知っていれば知っているほど尊ばれると勘違いして動機とする人がいるということ。)
けれども、そんな人に限って物凄く退屈なんだ。高慢ちきな無知に成り下がることも多い。
私は商店街の魚屋の名前や、名物の秋田犬のことをこのAさんに質問する。(本気で知りたいから。)
分かることと分からないことがあるやん。それで良いんですよ。
その人との会話はそこから始まる。
不思議なことに、その方が語らないことの多くのことまでもを理解して下さる。
そんな時、改めて思う。私たちは何も知らないねえ。だから生きていて面白いんだよと。
今日は山積みの仕事をデスクに放置して、その人とお茶をして笑い合っていた。「ご飯も炊けてるし、お風呂も沸いてるから入って行ってよ。食べて行ってよ。」と語りかけながら。