心のアルバム
1年程前のこと。
新卒の子が息せき切って駆けて来て「聞きましたよ!ヤクルトファンなんですよね?」と。
「父がマツダに勤めているんです!それで、父がその人にこのチケットをプレゼントしなさいって言ってくれたんです。良い席なんですよ!」
マツダ?ヤクルトなのに、マツダ?ああ、カープ戦ということかな?と慌てて理解し「ごめんね。」と、まずは詫びた。野球行きたいんだけどね。施設の人たちを感染させたくないから今は行けないの。
みるみる彼女の顔が曇って行った。
「ええ?じゃあ、どうしよう。」
それで「Iちゃんやお掃除のYおばさんもファンだよ。」言ったのだが、彼女は、ますますしょんぼり。
チケットの一枚は、清掃員のYさんの手に渡り、Iちゃんは「自分は行かないの?じゃあ、行かないよ。」と断り、しかもその一枚を自分のお兄ちゃんに譲ったとか。
それからというもの、その子は仕事上で会話しなければならない時にも目が泳いでいて「あのう・・、あのう・・・」と要領を得なかった。
急ぎの要件でもそんな調子だったので、段々イライラして来るようになった。「あのう」で話し始めるの、止めてくれないかな。でも、そんなこと言えない。泣かれてしまいそうな空気。いつも彼女の上に雨雲が漂っているかのような。
それからしばらくして、夜中のオンコールが掛かって来た時も「あの、あの、あのう・・・」。
誰かが急変しているんだ!と悟った私は「もう一人の職員に代わって!」と声を荒げてしまった。案の定急変で、施設に駆け付けた時、彼女はボロボロ泣いていた。
大事には至らなかった。何とか他の人から情報を拾って必要な薬がいったから。
仕方がない場面とは言え、私は冷たくて怖い役を被せられたようで気分で、正直彼女のことが苦手になっていた。
それでも大勢の人々と仕事をしているので、いつしかそういった出来事も絵から地に代わっていく。
くるくると状況が変わる現場では絵としてスポットが当たる出来事や人物も毎日くるくると代わる。その他のことは一瞬で地に代わる。これは時に良いことでもある。
それから1年ほど経ってから、彼女が相談員に異動するという話が出た。
皆が心配した。一人で抱え込み、言いたいことを言えないタイプなので、果たして出来るのか?と。
そして4月。一人の職員が発熱し陽性判定が出た日の臨時感染委員会には、彼女も出席したのだが。
その会議で、また高齢者や職員の安全を脅かすような話の流れになっていた。
同じことの繰り返しになるのを阻止したくて論理的に策を提案するのだが、どっしりと腰を下ろしたまま誰も反応しない。誰も理解しようとしない。これは、とある圧力のせいだけどね。
その時、彼女が「あの!」と叫んだのには、ビックリした。もっと大きな問題が絵や図として前に出ていたので、正直、彼女が出席していることすら忘れていたのだ。
「Ohzaさんはこう言っているんです!」とお偉方に向かってハキハキと説明し出した時には、一瞬ぽかんとしてしまった。
ハッと我に返って「そー、そー、そう!」と私が頷くと、それをきっかけに普段は黙っている介護課長や管理栄養士も「そうですよ!」と次々と発言し出した。Kちゃんも。← この人はいつでも誰にでも言いたいこと言ってるけど。(しいて言えば、何で今まで誰も言わなかった?)
知らない間に彼女は変わったのだなあ、成長したのだなあと思った。ただ利益を得たいだけの人には不都合かも知れないけれど。
そして、つい昨日のことだった。
医務室へ「あの、あの、あのう!」とやって来た。(少し”あのう”の声がでかくなったね。)
「明日、実調へ行くんですけど、この資料見ていただけますか?あの、一人で行くんです。何を訊いて来て欲しいのか、教えていただけませんか?」
顔には出さなかったけど、物凄く感動した。この施設でそんなこと言ってくれる相談員に出会ったのが久しぶり過ぎて。しかも、それが一年前に出会ったあの彼女だなんて。
熱心に訊いてくれた後「ありがとうございます!」と言って去ろうとする彼女に訊いた。
「野球、好きなの?」
一瞬キョトンとした後、「野球は 好きじゃありません!」と明瞭な答えが返って来た。はっきりと。
変わったんだ。いや、自分に戻ったのかも知れない。
実のところ、私も彼女のことを何も分かっていないのだから。
野球に誘えなくて残念だったが、この日彼女は一枚の大切な絵として私の心に残った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?