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ドラマ三角形

私はよくパートナーにたーくさんの愚痴を言う。もちろん、Kちゃんの方もよく沢山の愚痴を言う。(でも、私の方が断然多い。)

そうそう。自分自身も大概愚痴が多い人間ではあるけれど、赤の他人、例えば仕事仲間とか友達とか、誰かれ構わず愚痴ばかり言っている人を見ると、ちょっと引く。

特に仕事上だと、今、それ、関係ないよね?と話を元に戻すのが大変。

で、その愚痴が怒りを伴うほどになると、ビックリする。段々内容が理不尽になって来るので。

『お金がない、お金がない。税金が高い。どうしてこんなに税金を払わなきゃならないんだ。』

それくらいは誰でも思うことかも知れないけれど、来る日も来る日も同じ話ばかりで仕事をしないのを見ていると、段々不気味になって来る。

確かに自分も税金を払っているとは思うのだが、人様の税金のおかげで生かされている部分も多大にあるはず。道路が通っていたり、夜の町を歩けるほど治安が良くて、バッグを緩く握っていてもひったくりに遭う確率はそんなに高くない。

誰かが殺してくれたもの、誰かが精肉したりパック詰めしてくれたり、洗ってくれたものを口にしている。蛇口をひねれば水が出て、熱いシャワーを浴びることも出来る。

何もそれを感謝しろとは言わないのだけど、あまりに被害者意識が強く愚痴ばかり言っている人を見ると、恵まれるのはあたりまえで、何かに貢献することは被害ということになっているその法則に狂気すら感じて来る。

人は被害者意識を強く持ちすぎると、自分を可哀そうな人だということにするために、悪者を作る必要が出て来る。そして、そこから救う救済者ってのを妄想するようになり、現実にいる人間に投影してしまう。

つまりは普通に、ただ一生懸命にその人の人生を生きているだけの人に、勝手に自己中心的な役柄をあてはめようとする。

その行為は『あの悪者のせいで自分はこうなったんだ。』というストーリーを作るための配役。そして、そこから救ってくれるはずの救済者の配役。

特に後者の配役を無理やり被せられた人は、やっかい。勝手な理想像を押し付けられ、プレゼント攻撃されるかも知れないし、あらゆる方法で救済者に仕立て上げられるのだけど、その人の思い通りにならないと、同じくらい大きな憎しみをぶつけられ悪者にされる。相手は『???』となるばかり。

これは社会で大規模な形でも起こっているけれど、家庭や職場という小さなコミュニティでも起こりえるドラマ三角形という現象だ。起こしているのは、被害者のストーリーを作りたい人なのだが。

例えば、親を困らせる子供という配役が与えられ、親は学校の先生やカウンセラーを救済者として見立ててキャスティングするかも知れない。逆に子供の方がこれをやるかも知れない。

いつぞや書いた交流分析の”ゲーム的交流”というのは、一対一バージョンだったが、これは三角関係なので、より複雑で悪い意味で白熱する。

が、どちらも不毛。何も生まれない。

それなりに充実しているようなので、その時は生きている実感のようなものが得られるかも知れないのだが、誰も成長しない。何故なら決定的な共依存関係で誰も自立していないし、誰も自分の人生に責任をもっていないから。

気が付くのは難しい場合がある。でも、それが、不毛なドラマ的、あるいはゲーム的交流だと気づいたら、まずはそこを下りるべきだ。

それは、誰も幸せにしない延々と続く共依存の世界だから。

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