われ思う・・・って、この事か
仕事中にちょっと助けて貰ったので「ご親切にありがとうございます。」と、あたりまえにお礼を言ったところ、それだけでは済まなかった。
「僕って親切ですか?」と訊き返して来るので「はい。」と答えたところ「じゃあ、皆にもそれを広めて下さい。」と言われた。
まただ。
デジャブだわ~と、内心思いつつ「みんなって誰?」と訊き返す。
「皆は皆ですよ。皆に自分のことを親切で仕事出来るって広めて下さい。」
どこに行っても似たような人がいるのでもしかしたら世間一般で言う普通のラインなのかも知れない。
何故かは知らねど、「多数」ということに重要な意味を見出す人々。
人間は自分で自分を見つめても、他人が一人の人間を見つめても、実に印象がコロコロ変わる。
ある人にとっての優しい人が、他の誰かにとっては「おせっかいでうざい人」になるかも知れないし、温かい人と思われたり冷たい人と思われたり忙しい。これは多分、人間が皆、自分が見たいものを見ているせいもあるのかも知れないけれど。
そんな中で、ある一定数の人がプラスの印象を持ってくれたら、それはとても安心に値することなのかも知れない。だから「みんな」にこだわるのかも知れない。
ただ、介護や看護の現場で、お年寄りに執拗なまでに自分の名前を憶えて貰おうとしたり、人によく思われたいがためにしか何らかの行動を起こせない人を見ると、少し違和感。
「人のため」とは、なかなか難しい言葉だなあと思う。意味を取り違えやすい。
小学生の頃から「先生に言いつけてやる」という人の他に「皆に言いふらしてやる」というタイプの人が必ずいたなあ。確かに集団って怖いものだと本能的に知っているので十分な脅しになって来たのかも知れない。
ただ何故なのだろう。
私は「みんな」に興味が無いんだよね。
noteを読んでいても、「みんな」に固執して「みんな」に読まれるにはどうしたら良いか?ということを延々書かれている記事に遭遇することがあるのだけど、「そうなんですね。」と思って終了する。今日はあまり興味がない記事だったなあ~とか。
が、たくさーんの方々が読んでおられるようなので、多分、やはり「みんな」には特別な意味があるのだろう。この歳になってもまだ分からないあたりが恥ずかしくもあるが。
昔の旦那さんの悪気がない言葉を、ふと思い出した。
「あなたと結婚したおかげでみんなに自慢できる。」
そうだった、そうだった。あの方は社交的で誰からも愛されている人だった。営業を生業とする仕事なのでそれが強みでもあったのだろう。
でも、そう言われた当初も、今もふと浮かんで来る。
「だから。みんなって誰だよ。」
これは私にとって、あなたは誰?と同義語の問いかけでもあった。
要は自分は何を感じているか。
感覚をお留守にして「みんな」のことを考えすぎていると、ちょっとつまらない。