しかしそれでも仁義なき・・・
ご存知珠玉の名作は、実在の広島ヤクザ・美能幸三氏がムショで書いた手記が元。これを飯干晃一(飯干景子の父君)がドキュメント小説化。
美能氏がかくなる手記を書いたのは、広島抗争をルポした中国新聞社『ある勇気の記録』に頭きたから。本書はもっぱら新聞社目線=市民目線=警察目線であり、抗争内部にいたヤクザからしたら全く事実を毀損しておる。だからお勤め最中の網走かどこかで、美能さんは“事実“を書いた。
俺は『ある勇気のー』も読んだが、全く面白くなかった。いまテレビや新聞でコメンテーターしている大谷昭宏氏は讀賣新聞・黒田軍団の生き残り。氏は同書で新聞記者を志したそうだが。。。
やっぱ薄いよね、大谷氏のコメントも。
前回「連合赤軍編」にわたしは書きました。人間の集団は、必ず怪物化すると。
これはヤクザも企業も、はたまた政治も同じこと。近く総選挙が行わるるが、はて一体どういうことになりましょうか。
野党漸増、自民漸減、単独過半数はともかく、結局自公が政権維持。こうなると思う。
人間誰しも安寧がだいじ。例えばある春の日に、小さな女の子を連れたお母さんが公園で遊んでおる。そこへ私がマイうさぎを連れて、彼女らと邂逅す。
「まあ、なんて可愛いうさぎさん❤️」。氏は褒めてくれたりしなかったり。ただそこで俺が思うのは
「この人たちの暮らしを脅かしてはならない」
といふこと。
事は選挙に及ぶのだが、改革改革言うたって、それがまことに我が生活を改善するものか。はたまた脅かすものであるのか。直ちに想起さるるは「改革ってヤバくね?」。
もっぱら火の粉を払うのは良い。専守防衛的に。
基本は安寧秩序である。攻めというより守り。
もっともである。一見ヤクザの俺だってそうだもん。
改革()の中身が如何なるものであるか。それを判断するのは個々人のリテラシーによるだろう。そもそも日本人は変化を嫌う。そんな感性がある。
森友加計、桜を見る会に公文書改竄・・・民主主義の根幹を揺るがす大事件が散々あろうとも、我が人民は与党に入れちゃったりするが、これはかくなる志向だろう。
つまり、我が意に関わらず、誰かがどこかで意思決定しちゃうわけ。ヤクザや企業はもちろん、国民集団自身を以って、これを「怪物化」という。
◆仁義なき戦い ー シリーズの予告編集
同シリーズの4作目まで書いた脚本家・笠原和夫氏はガチの戦争経験者。映画化を、再三美能氏に許可頼むも、頑として拒否された。1973年当時は未だ関係者が現役だったこともあり。
ところが笠原さんが「私、大竹の海兵団にいたんです」と言ったら突然美能氏の態度が一変。「アジすか! 俺もいたんだよ」と。
それで東映は映画化できた。
仁義なき戦いは、反戦映画である。冒頭、広島原爆のシーンでそれは明らか。
3作目の「代理戦争」は、山口組と神戸本多会、広島における米ソ対立を模した「代理戦争」。ベトナム戦争である。
鶴田浩二さんや健さんの、これは任侠道の映画じゃない。だって「仁義なき」、仁義がそもそもないというね。
実際のヤクザ抗争に仮託した、群像劇であり時事問題。だから宝塚で板に乗せるべきだと、そう何度も。。。
東宝VS東映、米ソ対立という事はあろうが。
戦争然り、大人の勝手で死にゆくのは常に若い者。なので我々民草は、せいぜいこう言わねばならない。
「おやっさん、言うとったるがの。あんた初めっからわしらが担いどる神輿じゃないの」
「神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみいや。お!?」
ここで言う神輿とは、政治家どもの事である。そして、
「わしらの言うとおりにしとってくれたらわしらも黙って担ぐが。のう、おやっさん。喧嘩はなーんぼ銭があっても勝てんので」
坂井の鉄ちゃん♪
一寸の虫にも五分の魂。必ず選挙に行きましょう。
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