GoTo女の一人旅、輪郭を取り戻す旅
決めた。行こう、瀬戸内海。
コロナウイルスが猛威を振るい未だ多くの人が移動を自粛する中、もう居てもたってもいられず一人旅をすることに決めた。 都合の良い解釈なのはわかっているけれど、呼ばれているような気がしたのだ。瀬戸内国際芸術祭の舞台にもなる、直島および周辺の島々。穏やかな青い海、気持ちの良い風、島の自然に溶け込むように存在するアート作品達が待っている、あの場所へ行かなければ。
こんなにも一人旅に駆り立てられたのはなぜなのか、自分でもよくわからない。コロナ自粛でずっと家にこもっていたせいかもしれないし、数ヶ月前に好きだった人との関係に終止符を打ったせいかもしれない。仕事のスケジュール上、9月の初旬に夏休みを取ることになったけれど、その週にはたまたま私の誕生日が控えていた。パートナーに祝ってもらう理想的な誕生日の可能性を喪失した私にとって、誕生日にできた無駄にたっぷりの時間を嬉しいとは思えなかった。仕事も嫌だが、休みの中誕生日に一人家にこもっているなんて、想像したくなかった。
普段の私は特段旅行好きではない。特に「自分探し」と託けた旅に違和感がある。いくら旅に出たところで、新しい自分なんて見つかるとは思えない。どこにいたって悩み事は頭を離れないし、自分は自分だと突きつけられるだけじゃないか。旅好きな人たちを、そう冷ややかに眺めてもいた。
だからこんな「失恋旅行」、「新しい自分を探す一人旅」のようなもの、そのクサさに自分でたじろいでしまう。準備を進めながらも、初めての本格的な一人旅を楽しめるだろうかとギリギリまで半信半疑だった。「ただただ、夏休みを楽しむために行くのだ」と自分に言い訳をする。それでも、出発日の朝、羽田空港へ向けてまだ半分以上眠っているような街を歩くころには、小さな始まりの予感に心が踊っていた。
1日目、小豆島を走る
1日目はオリーブとそうめんが有名な、小豆島を巡った。海沿いにはそうめん作りに欠かせないごま油の角屋の工場があり、港に近づくとほんのりごまの香りが漂ってきた。このご時世で観光客はかなり少なかったけれど、フォトジェニックな風車のあるオリーブ公園では、私より10歳くらい若そうなカップルや女の子たちが何組もいて、楽しげに写真を撮りあっていた。その光景と直射日光の眩しさに、私は風景を数枚写真に残してすぐその場を立ち去る。そして素麺やジェラートを食べ、自転車を漕ぎまくり、恋人の聖地エンジェルロードを一人で闊歩し、夕陽を眺め、温泉を楽しんだ。
この旅では、島の中の移動をほとんど自転車で行った。そう決めたのには、理由がある。実は7年前、私は当時の彼氏と一緒にこの地を訪れていた。「もうちょっとこのアートを観ていたいな」と私が言ったら、「バスの時間はどうするの?フェリーに乗れなかったらどうするつもりなの?」と彼に怒られた。公共交通機関が脆弱な島の移動では、一本バスや船を逃すと次が来るのは数時間後、下手をすれば翌日になる。だから彼の怒りもごもっともなのだが、私は自分の小さな好奇心を踏みにじられた気になり、ひどく悲しかった。楽しいこともたくさんあったはずのその旅行で、今でも思い出すのはいつもそのシーンだ。その記憶を上塗りするように、私はたくさん自転車を漕いだ。
2日目、豊島のアートに包まれる
旅の2日目は小豆島から豊島に渡り、今回の旅で最も楽しみにしていたアーティスト・内藤礼と建築家・西沢立衛による「豊島美術館」へ向かう。水滴のような形をした真っ白な建物の内では、床から水滴が生まれ、他の水滴とぶつかり、くっついたり離れたりしながら大きな泉に吸い込まれていく。時々、筒の中へ流れ落ちる水の音が響く。天井にある2箇所の穴からは、光や風が差し込んできてリボンを舞わせ、水滴の表情を変化させていく。泉へと集まっていく水たちは精子が卵子に群がっていく生命のはじまりのようでもあったし、魂ひとつひとつが大きな源へ還っていく生命の終わりようでもあった。
小一時間眺めていた頃、雨が降り始めた。先ほどまでの秩序とは違う形に水滴たちが乱されていく。なんだか、今抗えないコロナの影響を受けている私たちみたいだなと思った。はじめは予定調和に生きられなかった水滴たちを不憫に思った。でも、きっとそれは悲しいことではないと思い直す。異質なものにぶつかって、形を変えてまた進んでいく。そうやって何かのエネルギーによって移ろう人生も、悪いものでも無いはずだ。水滴たちを眺めながら、そんな思いが腑に落ちて行くのを感じる。
止む気配のない雨の中、濡れながら自転車を漕いで次の目的地へ向かった。ボルタンスキーの「心臓音のアーカイブ」。ここでは名前の通り、過去に録音した人たちの心臓の音を、検索して聞くことが出来た。離れてしまった彼の名前も検索してみる。一番近くで、胸に耳を当てて聞くことのできた心臓の音。今は彼不在の中、穏やかな瀬戸内海にさめざめ雨が降り注ぐのをぼんやり眺めながら、なんの感触も得られないまま心臓の音だけを聞いている。全くの不在より、存在のかけらを感じる方が、不在が際立った。
直島で迎えた誕生日
この日の夕方、豊島から直島に渡った。ここから4日目の最終日まで直島で過ごす予定だ。地元の人たちが口を揃えて「こんなに空いていることは今までない」というくらい、観光客は少ない。メインの観光地とも言える地中美術館では、しばらくモネの部屋を独り占めして睡蓮の絵画を眺めることさえできた。絵に集中していると、絵の具が塗られた布のそれに、ある瞬間引きずりこまれそうな水の深さを感じた。暑いはずなのに、鳥肌が立った。
一人ゆっくりとアートを巡る旅は、想像以上に楽しく豊かな時間だった。無理に感想をひねり出して共有する必要もない。誰の目も気にせず、何時間だって同じ作品を眺めて居たっていい。途中でアイスでも食べて休憩したっていい。
昔一緒にここを訪れた彼は、建築やアートを勉強している人だったので、よく一緒に美術館を訪れた。本をよく読む人のことを好きだった時には、たくさん同じ本を読んだ。好きな人が野球好きだったら、自分も足しげく野球場に足を運んだ。自分も興味を持ったからやったことではあれど、どこまでが自分が自分として好きなものなのか、不確実さを感じていた。アートを嗜むのは、半ば彼と一緒にいるためのことであり、自分がアートから何を感じるかよりも、鑑賞している自分が彼にどう見えるかの方が気になっていたように思う。
7年前と同じ作品を見ているにも関わらず、感動は今回の方がずっと大きかった。自分の中に作品と共振するものが明らかに多くなっていたのだ。他の作品を見たり、本を読んで知識を得たこともあるが、何より感じ入るだけの人生の経験が増えたからだと思った。アートだけではない。 一人で旅をしてみれば、天気が良くて嬉しい、借りた部屋が好みで嬉しい、親切にしてもらって嬉しい、景色が綺麗で嬉しい。心が自分の中でちゃんと動いていることを感じ取ることができた。私には、私が私として経験して、感じていることが確かにある。そのこと自体に私はとても安堵した。
最終日、誕生日の朝。私は草間彌生の黄色い南瓜を背もたれにしながら、朝焼けの空を眺めていた。自分の手元にあるものを数えてみると、31歳にもなって、私は何かを積み上げるどころかすっからかんであることを再認識する。生きてきたわかりやすい成果なんて、何にもない。
好きだった人と離れた直後は、一緒に過ごす人を喪失したことそのものや、自分が彼の大事な存在になり得なかったことに対する悲しみの第一波に襲われた。それが過ぎれば、自分の輪郭を形作っていたものの喪失に気がついて、焦りと不安の第二波がやってくる。誰かの存在や思考に寄っかかっていないと、自分など空っぽに思えて、このままでは生きていけないような気がした。
日常の環境下では、自分の形が存在しているのか、環境の方こそが自分の形を作っているのか、気づくとあやふやになっていて、感情すら自分のものなのかわからなくなってしまっていた。ところが、一人旅に出て違う環境に身を浸したことで、自分が自分として感じてきたものの蓄積があること、その手応えを感じることができた。自分の輪郭を取り戻せた気がした。旅を通して「新しい自分」を見つけられなくったって、場所が変わろうと変わらない、自分の要素を知ることができる。そんな旅の効用が、やっとわかった気がした。
最後の一日
最終日の予定は、その日の気分で決めようと最初から決めていた。そして当日、私はもう一度、豊島美術館に足を運ぶことにした。直島から豊島に渡り、豊島からの直行便で帰りの飛行機に乗る高松に向かう。その日の豊島美術館には私以外ほとんど来客がなく、ほぼ独り占め。なんて贅沢で豊かな旅なのだろう。
ところが、高松に向かおうとフェリー乗り場に到着して事態は急変する。乗船予定だったフェリーが欠航していたのだ。どうやらコロナの影響でしばらく前から減便されていたようなのだが、観光協会が出している予定表にも、HPにもあるって書いてあるじゃないか……とにもかくにもわかったことは、今朝豊島に渡った時点で、東京に戻る飛行機の時間に間に合わなかったということだ。どうしよう…とフェリー乗り場に立ち尽くす。そんな私を見かねたフェリー会社のお姉さんが、いつの間にか観光協会のおばちゃんを呼んできてくれた。相談したところ、海上タクシーを使えば飛行機の時間に間に合うとのことであったが、高松へ向かう金額を聞けば飛行機を取り直したほうが安そうなくらいだ。他の選択肢はないか、便数の多い近くの港まで行ってはどうか…とおばちゃんと再度一緒にフェリーの時刻表と睨み合う。そして、海上タクシーで小豆島に渡り、そこから高速艇で高松に渡るという、金額と時間の条件を満たした解決策を見つけることができた。おばちゃんが海上タクシーを呼んでくれると、程なくしてなかなかご高齢のおじいちゃんが運転する、漁船のような船が港にやってきた。「これに乗るのか」という私の心の声が聞こえたのか、「こう見えて紳士だから安心して」とおばちゃんが声をかけてくれる。時間もギリギリなので挨拶もそこそこに船に乗り込み、小豆島へ向かった。
クーラーもろくに効かない船の部屋のなかで、なんでいつもこう大事なところでこうなのか、と抜けている自分に落ち込みながら海に視線を落としていた。すると、ドライバーのおじいちゃんが客室へやってきて、凍らせた桃の天然水を差し出してくれた。ありがたく受け取って栓を開ける。久しぶりに飲む桃の天然水は、冷たくて甘くて、やけに美味しい。
自己嫌悪なんかでこの旅を終わらせたくはない。自分を責める気持ちをぐっと抑え、すぐに周りの人が助けてくれたのは私の人徳のはずであると思いなおす。自分で全部できなくたって、一人のパートナーに寄っ掛かっていなくったって、いろんな人の力や親切を借りながら、自分は楽しく生きられる。それは私の才能だ。それでいい。きっと、心配なんてしなくていいのだ。
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