「自分の物差し」が短い人ほど、偉そうにモノを言う
お酒飲んでると、下ネタしか言わない人って、たまにいますよね。上品さの欠片もない下ネタ。パワハラやセクハラがセットになってるやつ。
それから、人の話を聞かない人。
誰かが話し始めると、すぐに自分の話に切り替えちゃう人いますよね。
「あー、そりゃあれだろ。〇〇だろ。知ってるよぉ。あれはくだらないよなぁ。それよりね……」
なんて感じで、人の話を勝手に結論づけて、自分の主張ばかり口にする。
ああいう人たちのことを「了見が狭い」と言います。
言葉の意味は大体 ↓ こんな感じ。
物の見方、考え方が浅い。
物を知らない。人の心を知らない。世間知らず。
懐が浅い。独りよがり。寛容さに欠ける。
杓子定規。融通が効かない。配慮に欠ける。
視野が狭い。自分の頭で考えない。
でもって、X(旧Twitter)を眺めていると、了見の狭い人が多いですね。
そして、了見の狭い人ほど、乱暴な持論をポストしています。
「マスクは任意になったのに、何でまだ着けてるんだ!」とか
「日本は八紘一宇の精神でアジアの解放を目指した良い国だ!」とか。
そうやって、よせばいいのに、その道の専門家に喧嘩をふっかけたりしている。
まぁ無知を振りかざしていることに気が付いていないのは可哀想な気もしますが。最近は、そんな残念な人がインフルエンサーになったり、テレビの文化人枠に収まってたり、国会議員になったり政党作ったりしているので非常に怖いです。
で、この「了見の狭さ」を「物差しの短さ」と言い換えることもできます。
いやですよ、こういう人。
普通に考えれば、物差しの長い人と付き合いたいし、そういう人に自分もなりたい。できる大人ってやつです。
でもね……僕、最近になってつくづく実感したことがあります。
それは、「自分の物差しって、なかなか伸ばせないな」っていうことです。
本で得た知識や、仕事で得た経験が、そのまま「自分の物差し」になるわけではないということ
これ、どういう意味かと言いますと、
学習だけじゃ「物差し」は伸びない。
ってことなんです。
いや、伸びたつもりだったんです。伸ばしたつもりだったんです。
一生懸命仕事して、いろんな経験を積んで、
最新のテクノロジーを常に活用してきて、
出版業界、IT業界、広告業界で時流の先端を感じてきて、
日本中でお客様にインタビューをしてコピーを書いて、
本も読んで、映画も観て、遊び歩いて、
恋もして、結婚もして、子供にも恵まれて。
「自分の物差し」が、それはそれは長くなったものだと思っていました。
でも、それは勘違いでしたね。
ただの自惚れでした。
いろいろ学んで、学んだことを実践して、仕事もうまくいって、知識も経験もたくさん重ねましたが、それがそのまま「物差しの長さ」には反映されていなかったんです。
何故ならば、僕の心が「自尊心」や「虚栄心」でいっぱいだったから。
いっぱいに水をたたえたコップには、もうそれ以上の水は入りません。
人間の心も、コップみたいなものです。
「俺はこれだけ頑張った」
「俺はこれだけ物を知っている」
「俺はこれだけの経験を積んできた」
「俺はこれだけ結果を出してきた」
「俺はそれなりに成功してきた」
「俺は他人と比べても、劣っていない」
「俺は人に見下されるような人間じゃない」
「俺はアイツより物事をわかっている」
「俺だって人に優しくされたい」
「俺だって尊敬されたい」
「俺にもっとスポットライトを当てて欲しい」
……自分で自分を認めたい気持ち。
人から認められたい気持ち。
誰かに評価されたい気持ち。
自分をわかって欲しいという気持ち。
少しでも自分を大きく見せたい気持ち。
他人に弱みを見せたくないという気持ち。
自分の心が弱いから、あれやこれやと身構えます。
他人に弱みを見せたくない、っていう気持ちが一番強かったかな。
他人に向かって身構えてたら、それでいっぱいいっぱい。
せっかくの学びや経験も、自分の物差しを伸ばす養分になるのではなく、
ガチガチにまとった鎧を強化することに当てられます。
心を鎧で覆っていると、損をするのは自分自身
率直に言ってしまうと、世の中、大半の人が「自分の物差しが変わらないまま」で生きてますよ。
その長さには個人差があるでしょう。
でも、成長の過程で出来上がった「自分の物差し」は、なかなか変わるもんじゃない。
知識が増えることで「物差しの使い方」は多少うまくなっていたものの、「物差し」自体は変わっていなかったので、大した変化にはなっていなかったんですよね。
僕の「物差し」が伸びたように感じたのは、心身ともにぶっ壊れてしまった後の話でした。
少しずつ回復してきた時、急に世の中を広く見渡せるような感じがして、心が軽くなったんです。
僕が壊れるまで口撃してきた人たちについても「あぁ、あの人たちも同じように苦しかったんだな」と、素直に感じることができたんですよね。
僕の心のコップから、いろんなものがこぼれていった結果なんでしょうね。生まれて初めて、素の自分になれた気分。
この時、思ったんです。
「ああ結局、自分の心の弱さを見せないように、心の中でガードを固めて、さらに鎧を着込んで、仕事が上手くいったり、儲かったりするたびに、ハリボテのような鎧を重ね着をしていたんだな」と。
そうやって自分が「強くなった」「成長した」「大人になった」と錯覚していたんです。
でも、気がついてみたら、それは自分の実像じゃなかった。本心じゃなかった。
「虚勢」という「鎧」を着込んだだけの、弱い自分だったんです。
よくよく考えてみると、寂しくて泣いていた、少年時代の自分が心の奥で怯えていました。「心の成長」ということに関して、どこかで時が止まっていたことに気づいた瞬間でした。
そう思い至った時に、今までよりも世界が拓けて見えたんです。
物差しの目盛りが、より細かく刻まれた感じ。
それまでの自分は、自分で着込んだ「心の鎧」のせいで、了見の狭い人間になっていたんだな、と。
心の「ひっかかり」を一つ一つほぐす
誰もが、幼少期から抱えている心の傷や、弱さがありますよね?
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今まで書く機会がなかった、いい話、すごい話、ダメな話から、仕事のアレコレを書かせていただきます。
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