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藝大に反発してウィーンの美大まで行ってしまった身で見た、東京の美大の卒業制作展の風景 - 美大やホワイトキューブなどの画一化されたフォーマットによって濫用される「良い」作品の規範性

筆者:長澤 太一 2025年1月22日

藝大受験をやめてウィーンに行った

 ぼくが都立総合芸術高校(油画専攻)にいた時、周囲は当たり前のように藝大油画を目指すという環境だったので、自ずとぼくも藝大油画の受験を考えていたが、高2の時に夜行バスで見に行った「あいちトリエンナーレ」(2019年)の「表現の不自由展」騒動で、日本におけるアートの受容のされ方や、表現そのもののあり方、藝大を中心とする美術業界のねじれに違和感をより一層強く感じるようになり、海外への憧れはなかったものの、嫌でも日本を出なければならないと考え、ドイツ語圏美大を受験し、現在はオーストリアにある国立ウィーン美術アカデミー美術学部で作品を作っている。(詳しくは以下の記事参照)

一時帰国して、3年ぶりに日本の美大卒展を見た

 ぱっと見の印象としては、やっぱ技術はあるなあって思う。
 欧州の美大入試がそもそも技術力の高さではなく制作のプロセスを中心に、ポートフォリオや面接をもとに「なんかコイツ面白いことやりそうだな」感ある人間をとる方式なので、僕の通うアカデミー含め、学生の技術力は本当に幅が広すぎる。信じられないくらいヘッタクソで、どこからその自信満々な顔が出てくるのか理解に苦しむ作品もアカデミーの展示では平気で並んだりするので、それを考えるとやはり、日本の美大藝大は技術力あるなあと思う。

 その上で、日本でもよく言われるような評価(講評)のされ方。たとえばモチーフに対する観察が足りねえとか、この作家をもっと見て勉強しろだとか、もっと現代美術っぽく言うなら身体性がどうたらとか、リサーチがとうたらとか、まあわかる。それが作品だけで伝わる場合はきちんと日本の美大でも評価されるなりしていると思う。

 しかし問題なのは、美術大学という公的な機関が、意識的にも無意識的にも一定の業界や社会を内面化(せざるを得ないような教員を揃え)し、その世界への架け橋としての役割を担おうとしてしまっていることにあるんじゃないかと思う。

 もちろん、ぼくが通うウィーン美術アカデミーも欧州の現代美術シーンへの架け橋となるような性格をもっている。しかし、それは入学時のその意思をきちんと確認した上でやっていることだ。日本の美大藝大(とりわけ油画専攻)に入るときに、高校生に対して「油画科といいながら実際は教員の専門は殆ど現代美術なので、現代美術専攻です。進路は大丈夫そ?」みたいな確認は果たしてあったか?

 現代美術(や他ジャンルでもその業界)が何なのかを理解し志すような文化資本に恵まれまくってる特権的高校生は大都市を中心にたまにはいるので、そういう人にとっては良いかもしれないが、実際の美大や藝大の学生のほとんどは、単純に昔から漫画やアニメやお絵描きが好きで、その延長で大学に行けて、かつ社会的にもそこそこ認められる場所を考えたときに美大や藝大がありました!という程度のことでしかないのは言うまでもないし、その選択のどこに悪いところがあるだろうか。良いじゃんね。

 つまり、作品の評価基準は既存の業界や社会のそれをベースに作られている一方で、実際のところ大学には、現代美術の文脈でやりたい人もいれば、学校の先生になりたい人、漫画家になりたい人、イラストレーターになりたい人、もはや美術にそこまで興味がない人まで色々いるわけで、なぜこんな多種多様な学生を、現代美術(や他ジャンルでもその業界)の世界で評価されただけの(しかも言語化能力もなければ、社会性や人間力もない)とんでもない人間が教鞭をとっているのかまったく意味がわからない。先日、某学校の全体講評にお邪魔したが、本当に酷すぎて何度キレそうになったことか。早急に退陣願いたい。(これについて既得権益などを語り出すと止まらなくなるので割愛)

 大体、作品というのは(というか人の認識は)作るだけではなく、鑑賞者が見ることで完成する。この割合を半々と仮定すると、つくっただけではまだ50%しかできてない。大切な残り半分の50%を、意味のわからない現代美術(あるいは業界)的言説で講評(笑)など言いくるめられて、本来その作品を届けるべき相手に届かないという、もったいない事象があまりにも多すぎると思う。

 美大にいると、どうしてもつくることばかりに意識がいくので、できたものをどこに見せるかということは忘れがちになる。たとえば洗濯バサミを自宅の床に置くのと、美大に置くのと、コマーシャルギャラリーに置くのと、公園に置くのとでは話がまったく違う。それは、美術というのは作る行為ではなく、あくまでものの見方そのものを指すからだ。(これはトラップなので自戒を込めて書くが、それを誰に見せるのか決めるタイミングは制作前でも後でもどちらでもいい。重く考えるな!)

 たとえば海外にいれば、日本で評価されなかったものがウィーンでは評価されたとか、あるいはその逆の経験はやはりするものだし、別にわざわざ海外まで行かなくっても、現代美術の文脈ではまったくだめだったけど、イラストレーションの文脈ではー、とか、あるいは文脈という言葉すら出てこないような地元の福祉施設のおばあちゃんにめっちゃ作品が好かれたとか、そういうことでも良い。その謎のおばあちゃんと、美大の教員のどちらが偉いかなんてことはないのだから。そして別にどちらの方が金になるということもない。なんなら、業界で頑張るよりもおばあちゃんひとりひとりにお小遣いをねだる方がよっぽど収入になるかもしれない。

武蔵野美術大学卒業制作展 油絵学科油絵専攻
小林耕平ゼミ 佐藤光さんの作品
「飛んできたサッカーボールを風船で返す」
作品のことはこれくらいで考えていきたいですね。

 卒展を見ていて、誰からも評価されない悪い作品なんて存在し得ないなと思った。大体、「良い」という言葉を人は信じすぎている。その裏側に孕む主観性の存在の問題を蔑ろにしすぎ。

 ただ、卒展というのはまず美大という場所性やホワイトキューブなどといったコンテクストが選択してもいないのに勝手に付きまとうものだ。この暴力性を自覚し、自分でどこに作品を置いたら良いのか・見せたら良いのかということを考えるのは、結構な場合、卒業後が本番だったりもする。フリーになれば、強制的にどこでだれに作品を見せることが可能なのか、自分で選択することを求められるためだ。

ぼくには何ができる(ない)だろう

 これらを受けて、ぼくは今後何をどこに置いたら人は幸せになるのか(資本が絡めばそれはプロデュースと言えるが、べつに資本関係の有無は問わないのでなんと言えばいいのだろうね。)とか考えていきたいとゆるくは思う。ウィーンの美大でウツビョーかましてる人はほとんどおらず、みんな人生を楽しそうに謳歌している一方で、日本の美大は病んでる人が多すぎる。美術がどうとか言う前に、まずはこの問題をきちんと考えた方がいいと思います。なぜなら、その原因はおそらく美大の構造や教育にあるのだから。

 その中でぼくの立場でできることは、健康的な制作ができているのかどうかを一緒に考えるようなプラットフォームをつくることなのかもしれない。たとえば、これまでぼくはその延長としてドイツ語圏美大受験の支援みたいなことをやったりもしてきた。(あまりにも相談が多すぎて学業や制作に支障が出てきたので、現在は有料化しています。ほんとはお金なんて取りたくないんだけど…)

 でも、ぼくが1人でできることには限界があるので、そろそろこのテーマについて少しばかり人を加えて、真剣にどんな実践ができるのか考えたいと今は思っています。

 話は変わりますが、ぼくは日本の芸術の諸分野の第一線で活躍しているorするであろう実力をもった友達に囲まれる7年間を高校からこれまで過ごしてきました。たとえば、美術の一分野をひとつとっても知識も技術もぼくは友達の中では中途半端で、大した実力をもちあわせているわけでもないし(それでも評価してくれている人はいるので感謝なのですが)、それがコンプレックスなんだと思います。

 けれど、だからと言って下を向いているわけでもなくって、だからこそ見れる視野の広さとか、うまく行かなかった体験とか挫折とか、そういった観点からコミュニケーションを取って作品を作ろうと思えていることが自分の強みなんじゃないかと思っています。

 ぼくは油画専攻だったので、作品はひとりでつくらなければならないという刷り込みのような考え方が無意識的にもあったんだと思います。けれど、これは別に総合芸術ではなく、一見、1人で完結するように見えている絵画であったとしても、作品が1人だけの手でできあがることはありません。

 日本に一時帰国してからのここ最近、進路という岐路に立たされるたくさんの同級生を見てきて、みんな苦心しているところを間近で見聞きしています。自分も例外ではないけれど、こういうときに助け合えずして友達とは言えないし、個人的にはこの1年半(「水底のミメシス」製作中)には、ほんとうにたくさんの大切な友達に支えられてきたからこそ、今度は自分が助けてあげられる立場にならないとなぁなんて思っています。

 自己責任論的な価値観が蔓延る今日において、この考え方ができるような人間関係を持てた自分と、乗ってくれている友達には頭が上がりません。でもそれはただ、ありがとうというのではなくって、きちんと手を動かして、いい仕事をすることで恩返しをしていきたい。だから、ぼくはまた動き出さなきゃいけない。ぼちぼちがんばります。


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