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良くないモノが寄ってくる トラウマ

世間は善人ばかりではない
けれど、世間は悪人ばかりでもない
けれど、僕は自分自身で善人を遠ざけるオーラを出しているのだろう。
それは、小学校の時に突然訪れた。

思えば、この辺りからだろうか、善人は近寄らず良くない心を持った人間たちが近づいてくるのは。

世の中は捨てたもんじゃないさ
とか
人は1人では生きられない
とか
さまざまな、綺麗な言葉を投げられても
僕の心は、それを受け付けないでいた。
いいや、ことによると 今でも受け付けないでいるわけです。

#小学校で起きた出来事
#トラウマ


中学では壮絶なイジメと偏見に晒された
虐めは生徒間だった けれど 偏見は 教師からだった
それも、教師たちは 集団で一人の生徒を追い込んだ
その理由は 自分達の信じる主義主張と異なる言動をするから
その教員たちの主義主張とは、現代の同じ中学教員の中では
むしろ、異端の骨頂だと思えるものだったけれど
あの時代は違ったのかもしれないのです。

ただ、僕の場合は虐めには合うのだけれど
都度、相手にも精神的、物理的な復讐をし続けて来たので、世に言う #虐められっ子  とは少し違うのかもしれないのです。
ただ、結果がどうあれ、僕にしてみれば好まない出来事が常に外からやってくるのは間違いがないのだか、これは絶対に不幸なこと。

一説には、僕自身が不幸のオーラを出して、災いを招いているという呪術的なこともあるのかもしれないし、どこか負の連鎖に入り込んだのかもしれません。

地下鉄に乗っているだけで、トラブルに巻き込まれたり、親族が起こしたイザコザを解決する人間がいなくて僕が巻き込まれたり。
思えば、今でも本当に日々災難の中にいることは自覚しているのです。

ごく最近のことで言えば、日本でも有数の著名な大学病院に、癌で入院。
ここまでは不幸と言っても、まああること、普通だけれど、術後に予期せぬ大量出血を夜中に起こしてしまい、病室でケアいただいた後、今一度 内視鏡をという一連のプロセスで、その悲劇は起きたのです。 同室の患者から、うるさくて眠れない、静かにしろとクレームをつけられ、こちらも出血という恐怖の中、お騒がせしたことは、社交辞令で一旦は真摯にお詫びしたのだけれど、よくよく考えても、ここは病院だし、この感情的な強烈なクレームは理不尽極まりなく。
出血と処置という緊迫した自体においてもなお、悲しいと言うよりも、ふつふつと怒りが込み上げてきたわけです。
流石に苦しみながらも、猛烈に腹立たしく、なんでこんな目に遭うのか、いつもながらに思い、看護師の方に報告し、早速ご対応いただきつつも、この怒りは病院としてご対応願いたい部分と、自分の受けた不愉快さは自分自身でも辻褄を合わせねばならないと強く感じ始めたのです。

そう、私に起きるトラブルの多くは、このような事がわりと日常的に各所の場面で起こるのです。
こうなると、世の中捨てたもんじゃない
という言葉も力を失うわけだ。

この病院の件では、私自身も始めから、一般病室ではない比較的プライバシーが保たれる、相部屋ながらコンパートメントタイプの特室を選んでいて、私なりに対策はしていたものの、それでも避けられなかったこともあり、病院側でも、私の止血、再手術の手配と並行して、問題の解決はすすめてくれました。再手術後は、完全なトイレ付きの個室を確保していただいたうえで、この相手方の患者が退院するまでは顔を合わせないで済むご配慮をいただいたのです。さらにこの方は、同病院において、以前にもトラブルを起こした事がある方とのことをスタッフから説明も頂戴しました。
病院側としては、最大限ご対応いただいたと感じます。

とは思ったものの、トラブルにならない人もまたいるわけだから、この場合もまた、私は何かを惹きつけてると考えるのが自然なのかもしれないと感じた次第です。
一方で、配慮はいただいて病院へはこれ以上何もないのですが、本人には一言、文句を言わせていただきたいと、感情は収まらず。合わない様なご配慮はありがたい反面、一度 きちんと話をしようと考え、実行しようとした矢先、またもやかなりの出血が起きて、再々手術となり、その機会を逸しました。
ちなみに、この大量な出血ですが、最高の医療機関とスタッフでも避けられなかったものであることは、病院の名誉のために書き添えておきます。

この一例の様に、慣れることはないけれど、普通の人よりは遥かに多くこのような数えきれないトラブル遭遇している。自覚はあるのです。

霊的にいえば
前世が悪い
悪いものが取りついている
などなどいう人
普通に仕事を通じてお付き合いのある方が
本人的には極めて善意で
ご本人が信じている宗教の会合に
騙されたと思ってついて来て!!

熱心に誘われるので
騙されたくはないけれどどした上でご一緒してみたら
そこの、パワーがあるとされる偉い方に手を握られ
なにやら、見てもらってみたら
その方が、肩で息して、険しい顔で
「これは、既に私の手に負えない」 凄い力だと言われ
これって、この偉い先生が何かを見極める力がある、マジで凄い人なのか?
と思う反面、すごいパワーがあるなら何とかしてよ とも
その後、勧誘も ないことから この先生には辛いだけで 何らのメリットも無い?
なんとも、複雑な思いだったわけです。

そんな形で本日に至ってもまだ、色々あるのですが
無くて良いことが沢山あるのは現実ながら
不思議と、それに対応する事ができる
出来事が起きるのもまた不思議なのです

病院の話は 本当に あくまでの一例で
でも、人の心は 不可解であり 人の感情もまた理不尽
それは、多かれ少なかれ 誰にでも

徹底的に無い方が良い出来事が、人の一生に影響すること
一方で、徹底的に無い方が良い出来事が無かった場合に
僕自身の、性格は人格は思考は今と違ったのか??

そして僕自身が今の自分を愛しているのか
そして僕自身がトラウマのない人生を過ごした自分を同愛していたのか??
答えの出せないことを考えると 僕にはもう一つの考えが頭を持ち上げるのです。

一番の不可解は トラウマ となった出来事は
その人の人生が終わるまで 深く影響するという事です

そして、その経験を 表に出せる人は極めて少なく
普通に過ごしている人に トラウマは潜んでいます。
他人のトラウマを知りたくはないけれど、トラウマを内包する人は
決してマイノリティで片付けられる数では無い、そう思うと人の心の認識というものは、現在の解釈とは抜本的に現在のそれとは違ってくるのではないでしょうか? そんな気がしてきます。

何かの機会があれば、ここに書きたいと思います。


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