
僕ら、バブルの旅行屋だった! もしも、旅行屋を目指すのならば、自分自身に色が付く前にいちど旅に出るべきです「旅は自分を探すための手段なんです」
1965年の3月2日 に生まれた僕は、57歳になった。
そう、今日が僕の誕生日
以前にも書いた記事を、別角度から書いてみました。
57年の人生
まずは、普通に学校を出て、社会に出た。
最初の3年は自動車関係の仕事をしていたのだけれど、3年目で転職し、旅行会社というところに入った。
社会人一年目、自動車関連の仕事をしていた頃のこと
この年で覚えてるのは
東京は晴海 この場所で開催される最後のモーターショーが幕をあけた
新入社員ながら、現場にはりつき、華やか過ぎる現場の洗礼を受けた。
大好きな車達、その見せ方、売り方、眺め方、そこで車と並んで注目を集めるのは、イベントコンパニオンの皆様。
見た目とは明らかに違う、この美しき女性達の仕事ぶり、その華やかでかつ厳しい世界。
最終日の光景は今も心に残る。
”一言で言うと、彼女たちの世界は、 #華やか という言葉で象徴された実力の社会だと勝手に思っていた若者が、当時の僕だったのだけれど、そこは、割と今は使わない表現で言えば #バンカラ そのものだった。
バンカラ(蛮殻、蛮カラ)とは、ハイカラ(西洋風の身なりや生活様式)をもじった語である。明治期に、ハイカラに対するアンチテーゼとして粗野や野蛮を創出したもの。
概要 · 変遷 · バンカラな校風で知られた学校(Wikiより転載)
縦割り、体育会風、共にイベントを成功させつつの自己実現の両立、チームワークと連帯感、意外と言えばそのもの、なんとも不思議だったけれど、あの打ち上げの日の、頭(あえてそう書いた)を務めるコンパニオンさんが、メンバーに投げた言葉や、全員の涙‥ 引き継がれる伝統は、体育会そのものだった。
一方で、これをささえる、メーカー代理店の大人の世界も見えて、純粋なものとドライなビジネスライクな形が、いっしょくたになった世界には、人生でも珍しい衝撃を受けたものです。
【旅行屋の人生がはじまった】#私の仕事
これがきっかけになったか、どうかは別として、社会人3年目 1989年11月30日付で、勤めていた企業を退職。翌日の12月1日付 で、私は転職をしたわけです。転職した先ですが、当時、都内千代田区と言えば千代田区だけれど、イメージは千代田区? とは微妙に異なる場所に本社があった旅行会社でした。今みたいに、スマフォをおろか携帯電話もPCも普及していない時代です。求人は新聞広告を見てのこと、募集理由は急激な旅行需要の増大に対応して人材が不足したために、中途採用を行うというものだったと記憶しています。試験は、初回一次が面接、2次が筆記、さらに身体検査を経てという流れでした。面接は、3名づつのグループ面接 質問内容は、この企業が即戦力を採用しようという意図が明らかに見えるものでした。
面接はまだ夏服の10月 PEYTON PLACE FOR MEN( #ペイトンプレイスフォーメン )の紺のダブルスーツにユッタリサイズの襟の小さめのドレスシャツに小紋のタイで行ったのを覚えています。足元は、Bassのローファーでした。面接をパスし、筆記を受けて、身体検査を受けて、入社したのですが、採用決定となった後、入社までの間に、研修センターで1週間の研修があり、この間、私、前の会社にどう言って参加したのか等の細かい記憶は既に無いのですが、研修センターと言っても、施設はかなりちゃんとした施設で、3食、旅館並みのお食事が出て、さらに温泉大浴場完備という環境だったのを覚えています。
私事ですが、旅行は好きか? と言われれば、準備が面倒くさいので好きではないのです。ただ、国内 海外 近所 を含めて、旅には発見があり、学びがあり、そこを訪れることでしか得られないモノ、コト、ヒト、との出会い人生を変える力があることは信じています。なぜ? 旅行屋を目指したか? これは究極ですが、当時の私は今の私同様に、あまり深く考えないのです。ひとこと、「なんとなく、楽しそうだから」でした。
そんなんで 良いの? と言われる方も多いかと思いますが、結論として、良いと思います。人生、思い通りにはいかないもの、それに、人生で大切なのは中身なので、入り口、動機、はじめ は、曲がったモノでなければ、それこそ何でもOKだと僕は思っています。
【配属され】
12月1日 着任したのは、東京ではなく、地元鎌倉からも近い横浜の支店で、仕事する環境と言うよりも、素敵なロケーションだったのですが、企業風土は体育会そのものでした。一般の方々のイメージする旅行会社とは違って、パンフレットが並ぶカウンターが職場というものではなく、法人営業がメインで、それも扱う旅行は、海外旅行のみ。行政視察団、企業の視察、海外職場旅行、海外イベント、それらの旅行手配から、イベントの運営管理まで行うというもので、必要なスキルは、企画提案型のビジネスとなるわけです。それでも、時代はバブルがはじけるかどうかの頃、世間の景気は良くて、新人でも仕事は取れます、みたいな時代だったわけです。当時の、上司の指示はシンプルなもの。「お前らの行きたい国をお客に売って、お前たち自身がお客を連れて行きたい国に行ってこい」 こんな言葉が、日常的オフィス内で交わされていた時代です。
そんなバカな? と思われるのかもしれませんが、当時は現実でした。さらに、こんなことも・・ 僕らは旅行会社、海外旅行専門店の営業マン そんな仕事ではありましたが、特別に、外国語に長けているわけではありません。きわめて普通の会社員でした。でも、当時はメールは無いから、Fax Telex さらに、専用端末からのメッセージで、基本は英語です。おまけに、電話も、最初は面食らうものの、これも千敗曰く「語学は習うもんじゃなく慣れるもんだ」と平然と言うわけです。半ば冗談だよなぁ と思っていたところ。初めて、先輩たちと行った海外、「悪いんだけどさ、日本から送った、機材のこれとこれが通関は済んでるのに、ここに届いてなんだよね、今どこにあるか確認してきてくれる?」はあ・・ ?? 「誰に聞けばいいんですかぁ??」と聞くと、「それを自分で考えうのも仕事のうち はい行ってこい」総てがこんな感じ でも、これ実は、理にかなっていて 先輩のいる場所でなら恥をかいても、失敗してもいいけれど、一人の時は、自分一人で解決しなくてはいけない、だからこそ、こんな方法でたたきこむわけだ。独特な社風があったわけですね。
【営業 仕事がとれるのか】
良い時代というか、当時のクライアントの皆様に感謝なのですが、私の旅行屋としてのかけだし営業人生は、ある意味でお客様に恵まれたのだと思います。
前出の行きたいところを売れ という言葉、ディスティネーション的にはあまり旅自体に興味が無かった私は、行きたいところの解釈を変えました。行きたいところ、 旅行に行ってみたい国 ではなく、営業を仕掛けてみたい企業 団体 法人 に変えました。つまり、売りたいところに売れ 興味のある業界、業態、施設 にアプローチしてみることにしたのです。 当時私が興味を持っていたのが、広告代理店、アパレル、百貨店、デベロッパー 古巣でもある自動車業界 等でした。 この興味のある先様へのアプローチは、大変楽しいものでした。 これは、海外の法人需要全般を取り込むという仕事が、型にはまらない商品だった事も大きかったと思うのです。修学旅行の営業なら、売る先は学校、行き先は 京都 奈良 九州 と制約され。 国内も売る店なら、職場旅行どうですか? 周年パーティやりませんか と少しイメージが異なる。商品が決まって売り先が限定される というジレンマがない、先様の話を聞いて、先様のビジネスに海外旅行を活用いただく道は無いか? というところです。 商品ありき 販売先ありき などの、縛りが無い、売りたい先に売れる商品があるか有るかをヒヤリングして、提案するという、方法に徹したことは、1990年代を通じて通用した事実でした。
例えば、当時の日本には、駅ビルという商業施設は各地にありましたが、Regional SC というものは無く、車社会ではない日本では難しいと言われてたました。そのSCには、倉庫のようなスーパー #カテゴリーキラー #フードコート さらには、遊戯施設があり。集客力のあるSCとは別に、家から注文して家に届く#メールオーダー など、今日では日本でも当たり前の業態手法がアメリカで成功を収めているので、見に行きませんか? みたいな話を、コヒーを飲みながら、アパレル企業の担当者や、デベロッパーの担当者と、日々お話をしていたのです。
それら、コーヒートークは、やがて予算化され、視察団を出したり、先様の企業でのイベントやキャンペーンが、海外とのタイアップになって、ユーザーを海外旅行にご招待みたいな企画になったりと、広がりを見せていきました。またさる、ファッションビルでは、セールのコンセプトをバリにして、セール期間の抽選景品をバリ旅行にして、バリのホテルで民族衣装を身に着けたパーティを企画。ご招待した側の方々とお客さんが同じ時を過ごす、手の込んだことを先方の皆さんと本気で作りこむなどしたものです。
【出逢い】
この世界は、出会いも豊富 けれど、その出会いは実に刹那的です。簡単に言えば、2度と会わない出逢いの連続なんですよ。また、2度と会わないわけではないけれど、ある時期、頻繁に会っていた仲間でも、ある日、じゃまた、と挨拶したのが最後というケースも少なからずあるのです。同じ組織の人間ではないけれど、同じ仕事をしていれば未定だけれど、年に数回は一緒に仕事をする、みたいな相手。ドイツのバス会社のドライバー、イタリアのレストランの主とか。時には、もっともっと生きずり、であの時空港でハプニングがあった時、助けてくれたオジサンとか、ま、日常生活とはそんなもんですが、不思議と旅先の記憶は、濃いのです。中には、本当によく知っていて住所も電話もメールも判っていたけれど、ある日のこと連絡しようとしたら、繋がらない、繋がらない、繋がらない、わからない。そんな海外の友人たちもいます。電話がわかっていたら、住所が解っていれば、実はそれって、それほど確かなものじゃないですよ。そう、たいがい会いたい時には、相手はいないものです。ビジネスでもプライベートでも。
【色恋】
旅行屋 バブルの時代 海外旅行 男と女
色々な出来事が、いろいろな物語が、あったのか?
なかったのか?
でも、我々の時代に言われていたこと
お客だけはダメ 厳しい掟
人間は弱い解釈が変わる
お客さんとして ツアー中はダメ
成田に着けばOKか?
もっと、自己都合の解釈
口説いたらNG
口説かれちゃったら仕方ない?
などなど、あったわけです。
けれど、我々に関しては
注意: 添乗員さんならば、ある意味で上記解釈もアリ? だけど、
営業はクライアント関係は包括的に絶対にNG
あることない事 煙がたつなら あることないこと 無でいけ
となるわけです。
でも、お客様と結婚した社員もいるわけですしね
旅行屋はモテる?
この答えは、完全に職業じゃなく、その人による モテる人は旅行屋でなくでもモテる そう言う事です。 ただ、1990年代の旅行屋の方が、今のそれよりも幾分まし? だったかもです。
その頃のパスポート
まず写真は、旅行屋になる前のものだったのです。旅行屋になる前だったから、見えたものがあったんです。それは、旅行屋になってから大切な事だと知りました。


【まとめて】
金にならないとか、昔はどうとか、今を見つめた時に
この業界がどうか?
それは、今に時代の人々が決めること
一つ言えることは、答えなんてないのだということ
他の仕事をえらんでいたら そこは検証不能な #パラレルワールド
いまあるのは、この世界だけなのだから
後悔してもしなくても大差ないわけです
たった一つの真理
それは
ただ、旅でしか学べないものがある
それを職業にした場合
得るものも失うものもある
だから、自分に色が付く前に旅にでるべきです
旅は自分を探すための手段なんです
【余談ですが・・・】
カバー写真のフライトボード 不思議なフライトがあります。
解りますか?
これも、旅行者としては 思い出なんです。