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とても大事な仕事への考え方・・ 誰がやったか より 何をやったか 誰とやったか


#仕事の心がけ

事の真偽は中に居ない私にはわかりませんが、よく、 #理系の研究者 、この場合は研究者というよりも、企業者に所属する #開発者  の皆様のことで、海外では開発した特許は個人に属して、日本は企業に属するみたいな話を聞いたことがあります。一生遊んで暮らせる筈の成果を生んだ開発者が、企業から頂戴する給与し変えられないとか、ゴシップなのか、真実なのか解りませんが、そんなお話を聞いたことはあります。それにより、開発者が外資に流出するとか? これは尾鰭の着いた話なのかもしれませんが・・・

僕ら文系のサラリーマン生活では、このようなことは皆無かといえば、案外そうでもなくて、特許とか法律問題とは別次元ですが、とかく、仕事の成果において、 #誰の仕事  かに拘ります。 チームで仕事をして成し遂げた場合であっても、チーム・・の成果 というより。誰々さんのチームが成し遂げた仕事、とか酷い時には 「あ、あの・・・さんのプロジェクトね、あれは大したもんだ・・・」 みたいに言われます。 
これは、どうなんでしょうか? 仕方ないこと なのでしょうか。

思うに、評価 というものが付きまとうサラリーマン社会だからこうなるのでしょうか、日本の場合は、過去企業内の成果は、即出世に影響することで、どうしても・・さんの成果と人に紐づけなくてはならにのでしょうか。仮に、話は戻りますが、権利や特許が、個人に紐づく社会であれば、誰が成し遂げたかは、日本の出世争いより、過激になるのかもしhれませんね。

チームの成果は、チームのトップの評価になる、だから、自分がチームで下積みしているときの成果は上の評価になるけれど、そうした地道な積み上げで自分が上に立つ地位を手にすれば、下の見出した開発成果で自分が評価される時が来る、所謂極めて旧来の日本的な発想も、考えてみれば争いを収める合理性を持っているのかしれません。

今の世の中は、私が若いときよりも、遥かに自己主張が許される世の中になって来たと感じますから、このあたりの事も、変化しているのかもしれません。

けれど、名声を手にして、富を得て、財を成し、年老いていく人 その富は、◎◎さんが個人として評価され続けた証、年老いた今、部下たちとの交流はなく、ともに苦労した仲間も居ない。
寂しいけれど、彼は偉大な成功者に違いない

年老いた老人が、集まって、酒を飲みながら、同世代と笑顔で語り合っている。そこには、ともに苦労して、ともにもがき苦しんでもやり抜いた、若き日の思い出があった。今、思い出しても、当時の自分たちに乾杯だ、拍手だ、だれもが笑顔で、年老いた今、その時をかみしめている。彼ら一人一人には、名声も名誉もない、けれど、彼らがあの日、成し遂げた成果は、この国の人達がみんな知っている。

極端な例かもしれないけれど、些細な成果でも、何でも無い日常でもいい、誰が成し遂げたよりも、誰とやりきった、何を自分たちはやり抜いた。
それで良いのではないでしょうか。

和を大事にしろということじゃなく
手柄を欲しがるなともちがう
人間は一人で出来る事には限界があり、常に誰かのサポートが無ければ生きていけないことを知り、一人で出来ないのならな、協力して助け、助けられ、何かをともに成し遂げること、もっと、もっと、その大切さを解った上で生きていくのも良いじゃないか ということです。

おしまい


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