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”そんな事”を習慣でやる自分

「大きなこと」

並べた外のいわゆる”エピソード”より、内側の奥の、それが”大きなこと”と感じる、という事は。

機能的なフォーカスがある事を示しているのはそうなのだけど、何より、普段には分からない・感じない「それ」というものが今この時に、大きく身近に「感じる」場所に居る、ということ。

これが何より深い話だと思う。

人の居る場所は、ただ肉体の在り処だけでなく、この奥の何かの状態がナニカによって囲っていないと(固まっていないと)、とても不安(定)な状態を受けてしまうということ。

普段にない自分の状態をこの自分が引き受けるというのは、想定外もいいところであって、この”私”の手段が及ばない。だからふらつくことになる…考えが及ばないものだから。

相田みつをさんなら、「そんなときはその道をだまって歩くことだな」なんて言うかしら。

そこへ私は、『愚痴を言っても弱音を吐いても別に良いんだぜぃ』と言葉を変える…かな。

その時、自分の根が深くなる事には同感だ。未来から見た時、後で必ず自分を支える大切な経験だったということが解る。


昨日のnoteで書かなかった、買い物時の「道を間違えた話」をサクッと。これは特に深い話でも何でもなく、頭の中の整理(術)というか、その整理の仕方、ルートによっては、業務進行は自ずと決まってしまうんだな、という軽い気づきの話。

・・・

「小さな用事”コト”を済ませること」から入っていたから。少し大きな入り口から入り「まとめる」ことでそれを見ていなかった。…信じられないくらい(情けない)の気づき。

後で出てきた言葉は、「効率(化)」。一度(一日)で済ませることが可能だったという思いが出たから。この様になる理由はひとつじゃないだろうけど、すぐに分かるのは、小さな用事、コトがポツ・・ポツと入る形でカレンダーに書き込んでいくから。

例えば初めに決まっていている事として1か月なら1か月のコトを入れるという事なら、「これとコレは一緒に…」が可能。小さなポツ・・ポツで割り振ってしまうと、ここは予定が入っているからココへ…という様に空いている所へ埋めるようにこなす―――、思い出した。以前の「足元の習慣、そこから崩す(見直す)」という話を。

どんな事でもやって行くと「こんな事?!」がどんどん出てくる。いつものままでは気付かない事が次々と起こる…。今までの”自分”があからさまになる事を同時に観ることになる。

「なんで分かんなかったんだろう…」それを当然の、当たり前に行っているから”分からなくて”当然。だけどそんな事をしていると分かるとショックでもある(笑)

・・・

余白がある所がつまり「空いている」ところなので、当然のように目はそこを埋める―――、それが習慣的な動きになっているのは、人として多分当然なんだと思う。

ましてや私のここ約10年くらい?の時間の使い方は、効率などをあまり考えることなく、その必要があまりない生活だったため、「効率的に考えて…」という見方が初めに出てこない頭になっている。

「この日にこれをする」という今は拘る必要のない事の実行は崩してあるため、特定の日に縛らない状態を作ったと思っていたけども、「深い所での」習慣にはなっていなかったという事も分かった。元の、固まった予定を壊してズラして融通の利く状態を作ったものの、”日”がズレているだけで、身につけている習慣自体はまだ全然崩れていなかった※


全体通してひと言で言えるまとめは、考えていない状態だった、ということ。

予定を消化していく事のみに動作が行ってしまい、その内容からまとめられるかどうかという吟味、「思考」がそこに出てこなかったというもの。

何かに囚われている状態は、必ず何かが見えづらくなっている。道を間違えてそこを通った時、「あ、なんだ。持ってきてれば用が済んだのに…」と、素通りしたことでその事に目が行った。


この「考える」という状態が、※の箇所と絡んでいるわけで、表面的なモノコトは気づいてその場で変える事はできるのだけど、長らくの習慣があるという事は、そうするに至る「思考」が中にあるということで、それは新しい在り方、考え方が身に付くまでは、一々「考える」という事を間に挟まないと頭の中の深い習慣は変わらない、ということ。

内側を通した動作に通ずる行動の変化にするには、内側で新しい線を何度もくり返さないとそれが習慣とならない為に、解っている事、やっている事、身に付いている事のそれらがまだ組み換えの済まない状態にあるようなもの。

「そんな事」にも気づかない習慣がこの中にあると、気づきに上がるほどの、無意識に回している状態があったということだった。

行動にクセ、パターンがあるように、頭の中の回し方、考え方にもしっかりとしたパターンが刻まれている。これは、違う考え方が深く刻まれるまでは、”一々”という手間をかけなければ古い習慣でまた流されていく。

それでも気づかないものだから。

せめて気づいたらやる、気づくたびやる。このくり返しでその体験が意識に上がりやすくなり、”考える”がコトの消化との間に入りやすくなる。

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☆うみのみか☆
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