自然とともに
驚いたんだよ、こんなに目の前に集団でバラバラと歩いている鳩を見たので。
私はこの近所を、犬の散歩をして10年程にはなるわけだけど、この住宅地でたった一羽の鳩が降り立つことすら珍しくて見入ったのが、まだ数年前。鳩の声はいつも空で聞いていた。
ホーホー、ホッホー
or
ホッホホー ホー↘
かは、人によるね。あとは、”ホーホ ホッホホー”だね(笑)
ホが木にしか見えなくなってきた…話を戻す。
それがいっぱいヒョコヒョコ前方を歩いていて思わずピースと足を止めて見入っていた。選挙事務所になっているその場所、敷地の草の上を何か食べているのかな、私が近くなったら鳩は奥の方へ移動してしまった。
丁度10羽。柄は3種ほどあったように感じた。なんか、とても嬉しくなった。
散歩する人と会話しても、今年はまたよく聞くように思う、「暑いんだか寒いんだか分かんない(;´・ω・)」という言葉。昨日はまだそんなに暑くなっていなくて、ワンも歩きやすかったかな。小さな公園はこの間、草刈りが終わったばかりで歩きやすそうだったからワンを連れて入った。入り口のライオンのコンクリートオブジェに怯んだピース。お尻を下げながら少しずつ、そろそろと近づき匂いを嗅いでいた。
⦅この子はあまりこういう所に連れて来てなかったからな…⦆
ベンチになっているのか、低くて小さなコンクリオブジェにも少しずつ近づいて確認していた。
この場の匂いを嗅ぐことなど殆どなくて、とても新鮮に感じているみたいで、アスファルトと違って、スンスンしながら緑の上を歩いたピース。その姿がまたかわいい。足裏にどんな心地良さを感じるんだろうか。
公園を出て間もなく、抱っこの目線とリードが引っ張り気味になるのを感じた―――抱っこ。そうでしょうねぇ(笑)
二陣目の子たちは、ルートを変えてしまったため、別の道を歩いていた。さっきのそんな事も忘れて、散歩大好きワンコの足を引っ張らないよう、大股でなるはやで歩く私。
バサバサバサーーッ
その角を曲がると、大量の鳥たち。またビックリした。猫や鳥、飛ぶものが大好きなワンコが興味津々で見ている。私もあまりの多さに見入った。
⦅鳩だ…、さっきのって事はないだろう…?あ、なんか違う集団も一緒に居るんだ…⦆
少し小ぶりの、柄がまったく違う多くの鳥たちを凝視。ここで見ることはほんとにないのだから。そしてここも、全てに共通していたのが、”キレイに草刈りがなされた後”の場所だった。
⦅私もだから公園に入って行ったんだよね…鳥かよ⦆
冗談だけども、でも背の伸びたそこで鳥たちを見たことは確かにない。刈られた後のその場は種など食べ物が取りやすいから?なのか。そういう事を私はまったく知らないから、ただ「私も鳥も同じね(*^^*)」と思った。
バサバサーーッと飛んで行った鳥たち。少し振り向きながら空を飛ぶ鳥たちを眺める…「うわ~、すごいねぇ!」返事のないワンコに語りかけながら。
・・・ ・・・ ・・・
ワンの散歩中は私にとっても大切な時間になっている。
もちろん行く前には、何かを中断していく事もあり、面倒に感じることもあるけども、その微妙な”感じ”が私を押し切ってくれる、というのもある。
散歩を楽しみにしているワンコの様子、催促するかのようにヒョコヒョコ視界に入ってくるその子。それを行う時、その”重さ”によって傾きが付いてくるのだろうと思う。
そうしてあげたい、というのは、ワンのことだけでなく、必ずこの”私”がそうする事で喜ぶから。この私と紐づいている。
人(他者)の思い・気持ちを感じとるのは、人は結構得意だったりするけども、この自分の気持ちを掬うことはけっこう苦手、というか出来なかったりする。
”私”は、この自分さえも隠してしまう。
「人」のことを考えていた。
湧いてきたからそのまま頭に連ねたのだけども。
多分、人は。特にその初めのころは、「自分」というものすらとても遠い存在で分からないだろう、と。
それを現わしているのが”感じ”というもの、その存在で。そこには初めから言葉なんて付かない。付けられない所を、だけど、この私の中に何か”感じる”から、「ある」とだけ分かるわけで。
そしてそれが、自分のその感じにぴったりと合った言葉を付けられているかどうかは、かなり怪しいものなんだと思う。それは「外側で」習った、知った、というものと繋いでいるだけかもしれない、ということ。「外側」という他者がいる世界では、意味を基準にしていることが多く、それは必ずしも自分のそれと一致しているとは限らない。
⦅自分にとって、この”感じ”以外に正しい事なんてないんだよな…⦆
その”外”に居ることで見え方が「内」とは違う、という事は、自身の体験を通して分かったはず。ということは、この外側から見ている、この外で感じたこと(もの)は、他者の”内”とは違うだろう…。とすれば、他者の感じているものが”今”において全てなんだな…。
人は、今までにはなかった、ここから生まれ出たい”意識”というものだってあるだろうと思う。言葉はその意識と”私”が出会うまでの仮の姿だ。
外側から内側のそれを現わす時、どうしても一致は起こせず、空間がズレた言い方になってしまう。そのズレを合わせていく為に、(外側からは)尾を引き何度も角度を変えた言い方で近づけていくのだろうと思う。