奥に潜む”感じ”、諦めて諦めない
「書き足す」前に、一つ触れてから(*^^*)
いつも書くことだけども、私は何かのノウハウから入って行くという事は原則的に殆どない。過去に「そういうものを目にしたことがある」という程度の知識、表面に触れたものはある。この極小レベルを「そこから入った」とは捉えていない。そんな事はいつでも常に起きている事だから(※)。
私が自分の行動を表現していく事、そこに湧くままに付く言葉によって表している。そしてそれが外の響きを経てこの耳に届き(目に入り)、少し調べる…単語から話題へと入る”展開”―――と、同様の状態・その言葉がそこに書かれている、という流れ。(現在にノウハウというものの実行に興味なし)
そしてこれが私の考える、【人は”知っている”んじゃないか】という事。ノウハウから入って行かなくても、人はそもそもちゃんと、この目の前のことから拾うことができる、というのが私の考え方になっている。
※「意識に上がっているレベル」で話している。”極小レベル”、これを入れて話すならば、広範囲のものにそれを含めた話にして”レベル”を合わせるべきと考える。「そこにだけレベルの違いを入れ込むのは違う」ということ。感覚的に次元を揃えているのだと思う。(そして勿論、若い頃はノウハウから入る事も”そういうもの”と思い、やって来ている)
夕寝のそれの事は、以前にも何度かその状態には触れているのだけども。
毎回、その呼吸状態を感じる(確認)するわけではないし、眠りは浅いその時に捉えられるそれらを書いている。眠ってしまえば、当然音なども拾わない。
そしてその呼吸がゆっくりと聞こえるその大きな音への”感触”は、この言葉が適当かどうかも不明だけど、これしか浮かばない。。
吸う⇒私はただ”聞いている”ようだ
吐く⇒ただ出ていく
止まる⇒出ていった音がなくなり、少ししてその静けさに「止まっているんだ」と気づき、大きく息を吸い込む。この瞬間が最高に気持ちがいい(と感じている)
言葉で内側のそれらを現わすことの難しさは、私は実際には”聞いている”わけじゃないと思うから。だから、”ようだ”とした。寝息、今は吸うというその動作が行われているその「音」を拾っているこの状態を「聞く」とする、という言葉を使った表し方になっている。この「表」というヒョーゲンの世界に出ると、ただ拾っていたそれを、何かこの世の為に”変換”しなければならないのだと思う。
そしてこの、吸う・吐くの時はその音を感じながら意識は違う方…、何か映像(かな)、そちらの方を向いていて、でも音は拾われていて、という様な感じ。そしてついに、吐き切った息の音が切れ、静かになるその時を感じて「あ…息が止まっている」と意識がこちらに少し戻り、それによって大きく息を吸い込む―――。これが最高に、本当に気持ちがいい瞬間。
これを考える時、”人がこの世に生まれる時”というのは、こういう事だろうか…と、赤ん坊の時のその記憶などないので、重ねて想像をしたりする。夕寝の心地良さは、精一杯今日も生きた一日の終わり、”解放”の心地良さとは目的が違う。夜はまた明日生きるため、またよく頑張った労いの時間でもある。
眠りというものの、沈黙の力強い下支えがあって、私は生きている。
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(私が思うに)湧くままに書いているものは、思考する(特に”考える”こと)を極力省いているため、またはその状態で言葉でなく、そこに”見えるコト”を、ある意味脳が勝手に結ぶそれのままに引っ張るようなもので、この世的に見て”正しい”とは限らないことは念頭にある。
後に目を通し、考えると”おかしい”と思えるのは、表の意識では常にその様にする事を当然として頭が働いてくれているものだから。その誤りも大いに含んでいるかもしれないものを極力”温存”することが良いかどうかも、現段階では分からないけども、少なくとも正しい/誤りということは、この小さな意識の私側が判定している事だから、それを敢えて無視するというもの。それでも完全な無視はできないのだから。
「出し切れていない感覚…」を感じるという事に関しては、その感覚、”何か”を感じているのだから、言葉はいきなり初めから出てくるものじゃない事は明らか。言葉は二の次三の次。外の音、刺激に勝手に映像がつくことは以前にも触れた。脳内で自然にそれができるということ。
そしてそこから(恐らく)ベースに、段々と練られていって、その事すら忘れた状態で、言葉・表現にされていく、そんな様に思う。忘れざるを得ない、という状況がそこにはある。
脳内のパッと浮かぶ、その瞬間に見た「感じ」は、そのこと自体をいくら追っても形は変わらないように思う。変形していくのは、その他のことなど他の要素、今までの材料等、組み方・組み込み方が変わってしまうからじゃないか。忘れていく仕組みがある為に、その時この表の「私」は、それがあそこから続いているものだ、とは断言などできないベツモノとして捉えるだろうと思う。
言葉にできる、すぐに言葉が出るというのは、その使い慣れた所で動きがスムーズな状態。それがどうにも適わない場所は、すぐに言葉にできないし、言葉でいう事の限界とも表現される。ヒョーゲンの難しい場というのは、実際にある。
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人は頭の中にあるイメージ・映像という言葉にされていないモノを含めて、「表現」している。この流れの全てを言語にしている人は、中々いないのではないか。
私の実感する所、”朝の頭”は特にこの傾向を強く持っていて、これが「身体は十分に起きているけども(意識的にも)、頭が眠っている」と表現するような状態。”言語にできる状態”というのは、しっかりとこの表面=現実世界に、近寄っている状態、と思うから。
本人の頭の中では、十分に”理解されている”ことだけども、他者からそれは見えない脳内のことなので、言葉にされないと余計に分からない…、その言葉の使い方自体も、人それぞれに使われるのに。
人は言葉を使う選択をした。
まだ全然使いこなせていないこの人類は、どれだけの時間をかけてこの能力を上げていく事ができるのか。人類総出の挑戦だね(*^^*)
もうそこに、セットされたものって、内訳とか分からない。
その構成は、[○※◇3△・・・]と、なんかいっぱいあって。人によって
その濃淡も分からない。
でも私たちって”セット”されているじゃないですか。気づけばこのセットがデフォルトだもの、その中にある事すら分からない…ね。
セットされたものを更に、意識上でなく無意識に落とされているわけで、余計に分からない。”分かってない”は本当に、”分かって”ない。この流れに現れる、表側で拾えること、そのポツポツという程度の事を書くための流れ。言葉はそれだけコンパクト。
そして、自覚上そこから”拾えた”と思っている事は一部に留まり、そこから少しズルズルと、既にカタチを変え「もうそこから離れている」と感じるような内容に移っていく。
これを、「その事から離れていく」=忘れるとか、執着が消えていくとか、表現できるのではないか。少しずつズレながら次へと移っていくその様子が、そこへ意識を持っていた状態から離れていく様子としてとれるように思う。
表と後ろ側を。引っ付けていくれていたその時間によって、表現/ヒョーゲンができている。