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私たちはどこに居るんだろう?

10/20メモ

「”外”のコト」に目線が移っていくということ。
自・他から離れ、コトの目線に移る。

だからピンポンのやり取りでも本当はなくて、シンクロと感じたものの対象が、”私との一致したもの”という一本線に感じてくる、という感じ。

そこから自然な「外は自分」という事へ繋げられる。


10/21メモ

真ん中に立っているという意識は消えると思う。

何でもそうだけど、「そうあろう」としている時点で、”そうでないこと”を証明している。散々やって来た。

今まではどこか、「良い人」も目指したし、「○○になりたい」あれこれなど、数えきれないほどあったと思う。

その中の一つに中庸であること、があった。

そんな事をしているうちに、目指すものではないという事が分ってくる…、不足を強調し続ける行為だと明らかになってくる。


そうと”分かれば”、やろうとしない。そこから目指さないやり方を選択するようになった。そうしている事から少しずつの変容を経て、見えてくるものも変わってきていることも理解する。

「どちらの(どういう)意味で言っているのか?」

という事が多くなる。

幾つかのことがそこに観えるから。

分かることの大切さと
分からないことの立ち位置と。

自分を抜きながらも、相手になって見たり(想像)しながらも、やっぱり”分からない”地点というのはあるのだと思う。

・・・

この時は、それぞれに「その内容」を感じて、メモをしているんだよね。

そして「その時」というのは、その時点で”最大”になっている、のだと思う。

昨日のnote内容とも関連しているのだけども、”最大”という位置づけをするのは、この自覚側の私たちの意識。何かを見て(感じて)、反応を拾いそれを言葉にしている。

昨日ふと、ポストしかけてやめたものがあって、だからきっとこれを書いている。

精一杯・目一杯やっている
まだまだ、もう少しできる・やれる
全然もっといける…

すべて、私達のこの世界で使われる”言葉”なんだけど。そしてこれの意味って、確かに本当に「その通り」だと思うのだけど。

ちょっと違う空間に行ってみる。


私たちは無意識に、無意識で「枠」を抱えている。そういう見えない枠を作っている。誰にも教わっていないし、その大小もその既定もなく、だけど大体各々がしっかり持っている。

その大きさを他人と比べる必要も全くないのだけども、だけどこの他者との共有する場、社会という場所も使いながら生活している為、そこから受けるものがあることも事実ある、そう感じてしまう。

こちら側→自分が把握している自分(小)
あちら側→上記それ以外の部分、殆ど(大)

私たちはかなり全く違う空間、世界を同じメモリの上に乗せて「比較」をしてしまっている。この目の前に広がる世界を「その様に見てしまう」というのは仕方がないけども、「目の使い方」を恐らく私たちは間違えてしまったかもしれない。


理由は分からなくても、私たちは何故か自分を”何かの中のもの”、と思っている、そう感じている。その中で一杯だったり、余裕だったりを測っていることが多い。

身体という塊においては、確かに動かなくなる限度、事実を目の当たりにしたりするのだけど、意識上のことは、私達の「思い込み」だけで、その様な幻を見せられているだけのことが多々ある。

もしも比較をするならば、社会における自分の位置でなく、その無意識に設定してある「自分の枠、大きさ」の方を確認した方が良い。その無意識に張られた窮屈が、自覚側の自分をもっとも小さな「最大」にさせるその場に閉じ込める。


自覚側の中のままだと勿論そこでは最大なんだけど、無意識側から見るその自覚意識の自分は、ほんの点。とてもじゃないけど到底「最大」になんてなり得ない。

自覚側の世界の、色々を学び向上させていくという事を否定はしないけども、逆から見るとこの枠を広げてしまえば、自然とそれが”最大”と限界を感じることもなくなる、つまりどこまでも行けるという”見え方”になる。

そしてそれは、やはり、ピントの使い方と紐づいていると私は感じていて、フォーカスできることは利点だけでなくまた逆の、例えば嫌なこともフォーカスできる事なので、その時に小さな中で目一杯の「最大」を感じてしまうという事だよね。


この目の”視界”を拡げること。観ている範囲、見えるものを広げて行くという事。それだけで自分の無意識にある制限「枠」を感じることとなり、「なんだ、良いんだ…」と、勝手に作っていたそれを緩めることができる。

まず、簡単にそう思える所から習慣に。何でも全部をムリヤリにやるのはまたソレを自分の中に最大にした状態だから。

そんな一見無関係なような、あちら側の意識を緩めることで、こっちの”自分”の自由度が増す。それが結果的に「こちらの能力を上げること」になる。

能力は。

脳力が表に現れて何か別のスキルの様にカタチ・存在を変えた様に見えるけど、私達の脳内が表に現れているだけと思っている。だから脳の眠っている、あまり使っていない機能を活用することで、”出来ること”が増えた様に感じる。


表現の仕方はどの様でも良いけども、その内側が外に現れた”モノ”だけを私達は目にするから特別な技術・才能・能力と思ってしまう。個々に持つ要素は違うので詳細は違っても、仕組み的には「同じ」と、私は思っている。

この個別部分が、「個性」と、今回は書きたいと思う(*^^*)

(この話は「見えない枠、無意識側の話が主なので、こちら側で捉えるコトの解釈は小さいです)


まったく別の話だけども、関連することを。

人工知能、自然言語と話題がとても賑やかでおもしろいと思う。そしてその中へちょっと入ってみると入れ子が少し見えてくるように思う。

機械の自主学習はその性能を格段に上げていく事で私たちの利便性も向上する訳だけども、それを実際に操作する「私たちが」その”性能”によって拡げられている、引き上げられている次元があるだろうと思う。

表向きはただの「操作」で、それを活用したスマートな処理・効率、補助と見えるけども、それを行いながらそのウラ側、私達の”あちら側”が活用できていると思う。


作業という小さなコトでありながら、やはりそれが私達の無意識を触る。

十分に素晴らしい時代に生きているんだ。
あまりにしっかり偏ったから、きちんとバランスはとられる。

大きな変化が苦手で嫌う傾向があるから、結果的に詰まって来たと考えるなら、苦手なこの変化は進歩・成長の前段階と観ることが可能。

”こちら側”の最大、その見えない「枠」の拡大へ。

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☆うみのみか☆
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