・・・かもしれない。
では、昨日の続きを(少し長いです)。
私は自分の内側を掘った話を書きたいのだけど、その”導き”も見える化するのが私なので周辺も書いていきます。
私が好きで読んでいるナリ心理学、ナリ君のブログ。
最近はビジネスの事のアレコレが記事にされている。心理の話がいい、ビジネスの話はちょっと…、というわけではないけども、比較的サラッとした読み方をしていた。普段からもこういう読み方は多い。
最近は、昔のブログの事に少し触れたりしていて、でもソコに飛んだことはなかった・・・けど、一昨日は違った。「どんなのだろう?」純粋な関心。
その中のいくつかを適当に読んだ。
「何年も前にこの状態か…凄いなぁ。」率直な感想と、今の自分なら「分かっている」内容なのだけども。でも少し「ここに時間を注いでみようか」という気になった。
【欲しくないものを絶対受け取れないし…】
と思っているのは、、、ってとこを掘ること。
とあった。
微かに引っかかったのを感じたんだよね。「別にそんな事はないけどな…」という、一見簡単にスルーしていく所だったから。「私は何でも受け容れる覚悟をしてるから」と、巧みにスルー=見ないように、しようとした自分だったから。
その後、初めにゆっくりとノートにまとめたのは、(その他に読んだ記事の事から)いかにも「そうか~、こういう事だったね~」なんて、余裕ぶっこいた私の浅い部分。
そこを書いていると長くなるので、進みます。
上記の軽く、すぐ観れる所を終えて探りへ。
「ビジネスの話はちょっと…」
「サラッとした読み方」
私にとってはここがポイントで、何でそうなったのかも肚に落としている状態ではあった。だからこその「スルー」。
「そんな事より家族が一緒に(楽しく、明るく、健康的に)過ごせる事」
これを第一優先にしているから。この想いを2度確認している。主人がポシャッタ時と、父との同居によって、自分の意志をハッキリ確認した事によるものだった。
私にとっては、この「”自分の家族”がとても大切で、これが崩れる位なら、そんなものいらない。」その想いは強かった(そもそも”どちらか”になっている)。そしてなぜそうなるのかも簡単で、
両親の離婚により、家族がバラバラになった。それによって私は悲しい思いをした。自分の家族は私が守る。バラバラになんてするもんか…。
と、「私の望みはココなんだ!」と思っていた。
その上で今一度問うてみた、自分に。
すると出るのは太字を言い訳にしてるのでは?と浮かぶ。偽りじゃなくて、幼少の経験からの影響と分かっているからこそ、
それがなければ”家族と共にある事”なんて、当然の事で、バラけるのも自由だけど、私の”一緒に”は、私の抱えた理想という事になる。
この”理想”を前にここで止まる、満喫するのも、先へ掘っていくのも私が決められる…。
そういう事か。
本当に「手に入れた!分かった!」で安住(あずみじゃないよ)したら先は視えなくなるんだね。
どんどん掘って(進んで)いけるし、どんどん”今まで”じゃなくて、「今、ココ」から読む事(”ココ”にあるコト)を思い出させられている、そんな風に思う。
ありがとう。
と、ノートから。
その時点ではやっぱり真剣に向き合って辿り着いているから、手応えも確かだし、その時点において「ゴール」と思う。
でもいつでも、進化してる”最中”で、長らく同じ状態ではいられないという事が起きてくる。それを感じた。
そして、自分の意志に於いて、
「私はこれが望みだ」
と、強く確定させれば、またそれはそれで、その人生が色濃くなるという事が言えそう。
意志で「カタチを決めなければ」、導かれるように扉はやってくる。
・・・ちがうかな。
いつも見えない扉はそこかしこにあるけども、やっぱりそれは開けに行くというより、”その状態”にしておくことで吸い込まれるようにそこへ向かうのかもしれない。
やるかどうかは別としても、「可能性の扉」は誰にも同じように”そこにある”のだと思う。
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主人に「どうして急にそんな事思ったの?」と聞いたら、
「暫くはコレで稼ぐけど、その後、オレは社長やるのかな…?ってふとね。」
私にも何の考えもなく、ただ流れから主人との話題にしただけで。主人からしてみても、ピッタリのタイミングで”ビジネス”の話が話題として入ってきたわけで。
今この夫婦の頭の中に、軽く意識はされたわけだね(*^^*)
先週の、主人への”濃いミーティング”から、翌日のパンクアクシデント…。主人はあれから「自分は運がいい」と思い込んでいる。
「何も”良い事が起きなくても”だよ」
と以前に言った事もまた忘れて、「結局…」なんて、戻ろうとする事はこれからもあるでしょう。
その、戻ろうとする脳のクセ、今までの思考パターンを、修正する時。認知を変えていくと、新しい世界が見えるかもね!
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以下はオマケなので、読みたい方だけどうぞ。
色々考えられる事はあるのだけども。
”多くの人”というのがどのようなプロセスを経て、「認知を変えていったか」は、私には判らないけども、少なくとも私は自分の経験から「認知を変えよう」という意志で”自分”を変えた。
それまでの「自分と思っていた自分」をガラっと。
それが「うつ病」で、私の人生の中で、1番苦しい経験だったと思っている。寛解から再就職、その生活の中で「認知を変えなければ再発の可能性」という事を知っていたから変える事が出来た。(病前性格という意味で。”きっかけ”は他にもある)
この”極端”を起さなければならない程、私は’極端’だったと言える。私自身、「白黒はっきりしている事」、が自分の好きな性格だったから。
そこで大きな修正を自分の人生の中で入れている。もちろん、自分が意図して病気を起こした訳じゃないけども、「それが必要な状態」にあり、その必要は起こる。
で。
私たちは習慣から、”自分の在り方”という今の状態が、当たり前に疑いもしないけれども、もしかしたらその当たり前の外には、「違う自分」がすぐ隣り合わせでいるのかもしれない。
・・・いやいるのだけどね、いつも。無限に。
自分のカタチを明らかにしたら、その線引きの外側との区別がはっきりしたね。『私とアナタ(他のもの)』は違うもの。
その明らかにした自分のカタチも、「自分の思っている自分」だから、違う前提をぶつけてみると、意外に違う自分に出会っちゃったりしてね。
”境”という区別は、あるようでないものかもしれないね。
あなたも私も一緒よ。
えっ?そんなババァじゃねぇ!ってか?
勝手に言ってろ(*^^*)
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これでいいのか?
という、焦りや不安からじゃない、純粋なゼロ地点からの
「そうであってもいいんじゃないか?」
という扉の前に立つ。
開けても、開けなくても全然いいんだよ。
そして、開けて引き返しても大丈夫・・・。
「引き返した」んじゃなくて、きっと違う扉を開けたくなったのかも、
しれないよね(*^^*)
そんなの、ココからじゃ判んないよ。