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意識が進んだから
そちら側に立ったから
そうしないと他者は分からないし…
Xのポストの一部。このとき「あ」と思ってそれを書いていくと予告したので、、予定通り「ひっくり返ったり」という事を展開していきます。
・・・ ・・・ ・・・
ここ数日に限らず。内・外、順・逆、入・出(力)などの表現は今までにも色んな形で出ていると思うのだけど。
土曜日のnote(前日書き)を書き終えて寝る前の頭の中を、ザックリとメモしていた―――
私のnoteでこの流れで書いていく事が多いのは、流れの中から拾っているという事と、そのまだ分からないただ湧いた粗削りなそれが、後のバーーッとしたものなどの「元」だった、と感じる事が非常に多いため。つまり、流れとしてしっかり繋がっているという事を現したいから。
メモ)
受け取る「入力」の時、繋がれるのは”内部”。自分の内側の、外の世界とは関係ない空間に繫がれてしまう。
解釈する時、”自分由来”になるのはこういう事か…、出す時の「出力」、発信もまた自分由来となるのだけど、それは少し違って外を意識したものを多く含み、内側の自分由来とは切り離されているように思う―――
このメモの後には、頭にイメージできた画がメモしてあるのだけど、画という画にならないレベルなのが私なので(笑)記号を使いそこから目へとイメージは移り描いた…(それは翌日、Xで似たものを目にしたからそれはそれで少し驚いた)。
で、このメモはまだ”分かり切っていない”、もっと詰まる状態だと自覚できる状態で。そんな所から昨朝へ”続いて”いる。
その後のメモも、内や中、外などの言葉を多く使ったメモになっていて、その派生したかのようなメモは明日にするとして、昨日のnoteにまだ近い内容のものを書いていく。
私は以前に、特に対象はいつも殆ど主人という事になるのだけど、主人との対話から、主人の中、「内側」というものを分かろうとしていたように思う。それで良いし、そうあることが必要な場面がもちろんあり、やはりそれで良いと思うのだけど。
それこそやっぱり、見方が変わった、少なくともこの事においてその見方・目線が現れたから、以前とは違うようにモノゴトを見ているのだけど。
そこ(その人)に触れたいから、中に入らない。
ここでまた「外から見る」という行為が大切なことに気づかされる。
このメモは、例えば主人を。その人の内側へ入って”感じる”のでなく、この私の場所のまま”外から”、「対象となる主人を見る」という事が頭に描かれていて。どういうのだろう、”中身”にあまり触れないで、この外で、外に現れてくるソレから「見る」ということに、私の意識の置き場が変わっている、という感じなのだけど。
私はどこか、その内側へ入って行くことが良いことのように感じていたみたいで、それも可能ならそれでも良いのだけど、恐らくこの外から「対象を見る」という事の方が、楽とは言わない、シンプルなんじゃないかと思った。
これはメモの時点で思い出すものがあったのが、以前読んだカールロジャーズの考え方について書かれた本で、その中で私が持った”印象”のこと。読み進めるペースが当時のリアルとシンクロしていてとても驚いたものなのだけど、今の私が感じているものは、「もう少し違った捉え方が出来たんじゃないか」というもの。(読み直していなくてほぼ頭から抜け落ちているので(コラ)”印象”と表現した)
それがその前までに書いた。「外から見る」というもの。
捻りが可能で、他に角度は変えられる様な気がするのだけど、現在において「そう感じている」という所からいうと、私自身が対象の内側へ馴染むように深く入らずに、外に出ているそれを見ようとしているから、と言える。
少し角度を変えていうと、対象自体が表側で表すものが多くなってきている、という事も言えるし、私が見る時に内側へは入らない所に留まるようになった、という事でもある。
観える、分かる、という事が、私にとって「良いこと」という考えがあったと言えて、それが現在では、他者のことについて「分からなかったとしても悪くない」という様なほど良さに目線が移動した、という事かもしれない。
表現できる部分の変化はそういう事なのだけど、それが以前の「内側へ入って行く」という事と、”目的”は変わっていない、ということ。人という他者に関心を持っていることに変わりはなくて、それだからこそのアプローチを表現しているのが「触れたいから、中に入らない」というもの。自分が動く範囲を意図的に絞り、そこから見る(受取る)。
・・・
”自分でないそちら側”に立ってみる
それってとても大切な在り方で、必要だと思っている。そしてそれは結構当たり前に無意識で人がとる行いだと思っている。
その他者に近い場所を経験するから、それによって起こる事も知り、また”私”を際立たせることへも戻ってくる。
もっと言えば、”そちら側”に立ったわけじゃなく、「この”私”の中にそれを取り込んでみた」という事、この私はいつもこの中に居るのだから。
他者を知ることは。
それに共感、同じように震えるというのは、経験の一場面。この私という存在の中に”他者枠”というような空間、カテゴリーを作ったのかもしれない。
(どんどん足されて行ってしまうので、そんな事も含んだ散らかったメモなど、関連は明日書いていきます)
追)
メモの粗削りの方が、かえってシンプルで分かりやすいと思う(笑)
言葉は細かくして説明することが可能だけど、それが私が体験・経験している事から伸びてきていることなので、詳細になるほどに細かすぎて想像が難しくなる。(シンプルな方が余白が多くあり、想像の余地が生まれる)
それは外からの想像になるのでこれもまた行き違う可能性も否めないのだけど、どうしたって自分と他人の世界。キレイに捻じれもなく繋がっている事の方が少ないのがデフォルト・・・。
それをなくすには、何度も対話で言葉を行き来させるしかないと思う。
※私は、自分由来のまま「外へ出力」することが多いので、わかりづらい。外を意識しないと決めているから。書く事において必要なカタチにするのはもちろんだけども、内容自体を外に合わせるようにはしていない―――私と切り離していない。
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