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色々たくさん、気づいていく

我が家のミルク姫さまが、昨日10才のお誕生日を迎えました(*^^*)

美味しいおやつと、昨晩はフードに鳥軟骨のご飯。

食いしん坊が止まらないミルク。

美味しそうに食べ物を食べ、健康的な生活を送っている姿が本当に逞しい♡

すこやかに、お嬢様。


11/23メモ

(恐らく)その目の使い方に慣れるまで「”そのもの”を見る」ということは、私たちには難しいのだと思う。

今まで”過ぎたもの”を見て判断してきたから。

エラー、間違えるという事を起すことを人がネガティヴなことと位置付けている為、動物の様な本来のその時点を見ることが弱くなった、という事か。


理解・解釈・判定(判断)が、可能な時点で殆どが既に”その時”ではない、ということ。

瞬間瞬間の確率は50-50。100%近くの精度があるという事は、それだけ遅くに学んだ可能性があるということ。

50-50の場所でくり返した事だけが、その場の精度を上げる。

とすれば殆ど、「遅れた人間の場」にいる私たちは、もう少し、まだまだ先の場へ立てる。

そこが川上であるから、流れは後ろへ流れていく。


11/24メモ

私たちはネガティヴ?

本当に”良い”なら、そんな事を何も考えないで生きているでしょう。

見えない前提を持っているから”表”がある。

良く捉える・考えるという行いは、そうでない”反対”を感じているからそう捉える努力をする(している)ということ。その方向に持って行かなければ、「そうである」から。(表の行いとしてそれでいい)

そういうものを抱えているという、分離した状態からココへ持ってきて”見る”ことで、分離でなくなる。分離は強調される状態。

自覚せずとも無意識でその位置づけだから分離されているのだと思う。(特に問題でないただの無意識ももちろんあるだろう…今という時点においては)

・・・ ・・・ ・・・

メモのことを少し拡げて書くと。

その私たち人間の”目線”をどこに置くか、という事になる話で、この目線が”瞬間”を捉えられない、という事をすべて否定するものじゃないと思っている。

”切り取り”の話はいつも思うのだけども、その人によって見ている区間が違うのなら、それを繋いで見るとヒトツナガリだよね?と思うから。何かと「合わせて」話す時には同じ所に立つことが必要な場面もあるのだけども、それだけが解決策(?)とは思えない。

そういう事から、そしてそもそも全てがソコになる事なんてないし、その目線を活かす、「瞬間ではない」という事実を知っている事、というズレている事を把握しておく事の方が大切な様に思う。そしてその精度を上げてきたのが人なんだと思う―――。

あとは、実行力となるね。

・・・

「その方向に持って行かなければ、”そうである”から」

自分で書いておきながら、たった数日で思うわけです、”それに問題があるかい?”と。

私の中の、色々が本当にきちんと崩れてくれていて、だからそれを”見た時”、ん?あれ?と何かをそこに感じたりします。

多分、「書く」というアウトプットは、ただ外に出したそれを、後に時間を置いて自分自身の目を通してインプットすることで、そこは完全な「客観」が立ち上がり、外のものを目にしている時と同じような”その一つ”となる様に思う。


自分から出している時は明らかに自分の中から出しているので、「自分と分かっている」のだけども、一旦外に出たものはそれへの目線は”自分”となるとは限らない。

それに対して強固な塊、記憶にしていればその時の自分としっかり手を繋ぐかもしれないけども、”出力して終わり”程度の拘りの薄いものならば、経緯から”自分が書いたもの”と分かることだけども、現在はメモする段階でのアウトプット自体には、大した役割がない、という事が言えるように思う。

その中で、自分の何か「氣」が引っ掛かっているものは同じ流れを辿ったとしても、客観よりもそのメモ内容を「当たり前のこと」として再び取り込めるのだろう、と感じた。

その”当たり前”が通用するのは、この自分本人だけだから。

他者にとってはそれが当たり前という事は必ずしもない事だから。

・・・

「感覚」が変わる、というのはあると思っているのよね。

もう少し詳細に言うと、処理のされ方に変化が出たんだろう、という意味だけども。ここで想定しているのは、身体的よりもそこからの情報として処理される脳内のこととして観ていた。

今までと変わりなくいつもの様にやっていたスナックタイムや、決まったタイミングで何年も飲み続けてい飲み物。おいしいと感じていた数々の食べ物が、そこまでおいしいと思わない、そんなに食べたいと思わない。

違うものへ目をやり、飲み物も変えた。便通なども少し変わっている事が確認できている(私は便秘症じゃないけども)。


食べ物に変化が出るのは珍しくはないのだけど、今回みたいな、意識から「これをしてみよう…」というような流れではなく、”今までのものが入らないから変えていこう”という表現が近くなる。

それは私の意思が絡んでいるというよりも、機能的なものからその様に選択をしている、という風に観る方が自然な気がしていて、脳腸相関が漂ってくる感じがしている。


書いている途中、主人が別件でおもしろい事を言った。

「だって世界はクソだもん。そんな事もう分かり過ぎちゃって。だから自由の方を見ちゃうな…」

なるほどな。

メモ内容を含め、私が多用する「前提」。

主人の話にも通用する、と思って聞いていたのだけども、そこに続く主人の口から出るその”実感”らしき「世界がクソ」というものが、主人が目にしてきた世界なんだろう、と見えたように思った。

今までなら、口にしなくても内心で「それは…」と思っていたような類だ。それがスーッと主人の話している世界の中に移っていった。

⦅この人が見てきた、どっぷり浸かって来た”世界”か…⦆

自分の中の”言葉という解釈の世界”からまた抜けている、と感じた。

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☆うみのみか☆
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