はだかの王さま
本当に自分の”まとっている物”は見えないんだよなぁ…。
ストーリーは簡潔、こんなに「分かり切っている」はずなのに。
いつも既にこの世界に表されているあの憶えのあるストーリー。だけどやっぱり人のいる世界はこのストーリーとは別の次元で回っているみたい…。だからなかなか出会うこともなく、”それぞれ”は知っているし、”ある”のだけど…出会えない。
そしてやっと会えるから肚に落ちて行くんだよね。そこからそのパターンをしっかり血肉にする。
なんで気づきにくいかって。
やはり何かうまく行っている時ってスムーズだから、あまり自分に疑問をぶつけないからだよね。スムーズという事は、色んな理由があるにせよ一言で言えば「周りが」自分に合っている(てしまっている、くれている)状態があるから。
これがまた気分が良い状態だから。何も深く考えることもなくとにかく快適な状態であるから気づかない。
そして何かふと、外のものに目が留まり少しハッとした…、似たような状況がなかったか?あったのかもしれない…と。そこで少し気づく。
外からの刺激って、本当に大切と私が思った。
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先週のメモで、何のことにそう感じたのか憶えていないのだけど、私がふとそう思ったのでメモしていた。
何かに足止めされる事なく自分にとってはスムーズな流れにある時。何もこの自分に引っかかってこないものだから、ついその流れに乗ってしまう、乗っていることの自覚のない状態になる。
この時の状態は、自分の中からの無意識に行っていることがただ自然にできてしまう状態で、自分による”検問”が休んでいる状態と言える。まったくのゼロではないけども、ほとんど気にされる事なく”できる・やれている”のだから”ある”ものがただ出る。
自分に身に付いているそれが、自分の思考を挟むことなく出ていく事は、普段出せない状態に多くある場合には良くて、全てがダメな話じゃなくて。ただ「油断できる時がやはりマズさを一番抱えているよね」という事の話。
この内容から、大分前にも書き、事あるごとに頭に描かれるのは、「自分がスムーズに出力できる時というのは、その周りはそれを許してくれている、ということ。
その許可は、当人の中で無自覚であるかもしれないけども、その姿勢が事実ある事によって、別の者のスムーズは可能になっていると思っている。
色んな所に立ち、そこからの目線で書くので、内容が矛盾することがかなりあると思う。私は自然にそうできる時はそうすれば良いと思うことも多く、ここまで書きながら否定するスタンスは持っていない。
ただその中で「こういう時」という油断からの学びも過去から今までに少しはあったと思うので、気づいてメモしたんだろうと思う。
基本的には、その流れにある時はその中に居ることでそれを知ることができるので、その姿勢は大切だと思っている。ただ、ブレーキもかかる状態で幾らかのバランスを保っているように思う。
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そんなことは関係なく、ただ自分の内にあるものは出せば良いだけ、という在り方もあるけども、それが普通にできてしまう人もあるけども。それは何らかの”力”を持っている事に因るし、その部分はきちんと自覚されている部分だと思っている。
そうでない、ほとんどが「そうだと思えない」という状態を無意識に持つ者にとっては、このただ出すという行為自体が難易度の高いもので、そこに高さを感じるほどに無意識に習慣化された、”外からの力”に自分を閉じ込めている。
そういう圧力が実際にあったかどうかの真偽は本当は関係なく、だけど”そう感じた”何かによって、自分がそのパターンをしっかりと形にし保存した。だから無意識でそこに作られた高さを持つ。
”感じる”というとても感覚的な、知識よりは全く劣るような位置づけのそれだけども、実際に脳内で処理されている事には変わりなく、自分の中においては全てが”真実”というその世界にある―――。
昨日の日中に1時間ほどで手際よく作業を終えていった修理屋さん。
来る1時間前に確認の連絡が入り、5分前にはきっちり到着し、チャッチャッと終わらせていった。
しっかりとしたその後の対応、行動で示され、こちらはとても良い印象を持った…
「あ、蚊取り線香、ありがとうございました」
こちらが勝手にやった事に対しそう言った彼のひと言に、細かい所に気づいている人だ…と感心した。