中を潜らせて深さを作る
その時は何になるか、どう繋がっていくかなどは分からないままに、湧いたものをメモすることは、そこではまだ意味が明確でなかったとしても、後の流れによって意味がついてきたりする。そのまま流されてしまうものも…自分によって。
⦅書きっ放しのもの…、何かあったかな?⦆
この動作自体が、無意識にやっていることがあるのだけども、きっかけは何にせよメモ帳をめくり、✖で消されていないものに目を通す。「消して消化したい」という漠然とした思いがいつもある。
ここのところ何度かあったのだけども、何も気にすることなくnoteに色々を書き終えていて、上記の行いをして目を通したメモの内容に気づく。表現の仕方は違うけども、”同じことを言っている”と分かる。それが私が意識していなくてもしっかりと無自覚に残っている”情報”、頭の中のつながり。
自覚できる”私”から見る、無意識部分のその空間は、とても淡くてこちらで特に取り上げるようでもない、という様な存在のようでいて、実は非常に強い在り方でそこに在る。これはメモをしだすようになり、その”連なりを追い続けたから”私は確信している。
そのように表側へ上げられてくる・作られていく(結ばれていく)”過程”を現しているといってもいい。使われる言葉は特定でなく、ニュアンス”その感じ”が活きた表現として、ゆるさを維持している。
そんな状態がベースにあるとして。
その上に、自分のハッキリとした意志(意思)、考えを意識的に乗せる時、言葉はかなり明確な現れ方をしているように思う。思・考の強さは、本来まったく関係のない”言葉”に溶けこんでくるから言葉はおもしろい。困った使い方も世の中にはあるでしょうけども…。
世の中の動きが、とても速くなっているのには、表面部分で回すようになっているから。イメージは横の、地表の浅い所での動きだからその表面のみをグルグル回す速さがあると感じている。
他の言い方をすると、この表面を一緒に自分が回ってしまっているので(追いかけてしまっている)、速いと感じる。「自分はここに居る」という状態がない。
「外」のことに容易に影響されてしまう、他者の存在に簡単に自分が汚される。それはちょっとムリすぎる考え方だと私は思っている。(これはちょっと前にあった、ある話題に絡んだ話)
色んな形で書いていると思うのだけど、様々などんな事でも、流されて”やる”のと、自分の意思を持って行うものとでは、まったく結果が違う。意思には自分の見えない”方向”が含まれていると思う。それはそう簡単に流され続けたりしない。
それがない状態というのは、自分にその軸のなさがあることを認識せずに、他者の何かを自分にかかる負荷と思う、またその思い込みによって他者を退けようとする事でしか自身を守れない状態があるという事を否定できない。
ここでも自分の内側を何も通していない事が分かる。
ただこの時、本当にそういう関係性ができてしまっている”状況”もあるので、全てをこれで片づけることも出来ず、世の言葉で提供されている情報は、表面部分やほんの一か所しか触れていないと思って読み込みたい。
(余談:これは過去の同僚の体験談)
営業の成績が上がらない部下が、隣の席でため息ばかりをつき、念仏のようにネガティヴなことをボソボソという事が多かった(らしい)。この上司は後に、片側の耳に音の聴こえ方に異常が生じるようになってしまった。
この二人は、元の会社の同僚という関係だったことも絡んでいた様に思う。そういう仲であったから、部下はちょっとした愚痴のつもりでゴチャゴチャと口にしていたのかもしれない。
これを別の人から聞いた時に、「そんな事があるの?」と私は信じられなかったけども、色んなことがその状況から考えられる。
(再び元の話題に対して)確かに人は”相手によって”自然に自分の態度を替える。人に限らず生き物はその様にして自らが残るようにする、それは処世術なんだろうと思う。
それは手段としての選択も無意識なんだろうけど、他者の存在によって自分側へ深く影響してしまうということは、かなり自分の傾きが大きく、外に依存している状態にあることは言えそうで、人は自分の能力・存在の力すら気づいていないのだろうと思う。
”気づいていない”
気づいていないだけなんだよね。多くの人がそれに気づかないから外の環境が影響すると思い込んでいるんだよね。この先も気づかない人の方が断然に多いと思う。
外での皮を被り過ぎたから、その重さに負けている状態は、少しずつ身を剥がしていくことで自分が見えだしてくるのだろうと思う。最期の時までに「自分」に出会える人が増えると良いよね。
「”連なりを追い続けたから”―――」
まとまっている言葉はけっこうウソつき。
その流れをまとめる表現に替える時、「いや…そうじゃないよね…」と、その時の連なる記憶と照らし合わせて”違う”と、この中で感じる。
noteへ書いていく、メモ帳に綴ったものを元にしてnoteにする。その行いの中で、ふと書いている言葉が、それ以前の近い所から内容は続いていた(いる)と、何度も感じ掴んだ。
”連なり”を追ったんじゃない、時間を過去に戻しながら無意識にしているそれらの事は単発で都度浮かんだようでいて、そうでない事も多かったと知った。それらは”連なっている”と。
経過から連なりを知る。本当は経過はすべてバラバラの事象なんだけど、無意識のフォーカスによってそれらが連なっている(話題)と見えてしまう、その様にも思える。