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どれも”私”になるもの

エナンティオドロミア…

反転、確かに一時的にはそう思う、感じるかもしれないけども。私は「無意識から反対側の自分を受け取る」事とイメージし、それによって”私”が拡大することにより「両方」を収める、のだと思っている。

またどこかで書いた、そのくり返しで”私”が広がって来るならばそれは言い換えれば「無意識にある私」という存在になっているだろうと、表現上はできる。一部しか持っていなかった”私”が取り込み続ける、偏りによって無意識から寄越されてくるならば、理屈ではそういう事になる。

”私”がすべて、”無意識の存在”ではまたオカシイのだけども…(だってそうはならない)

<もう一方にいる”わたし”との統合>

メモからで余計な思考が入っていないので、内側のある状態で言葉を付けると読むとオカシイ無調整だけど。それこそこれは、”私”が感じ取れる自分の内側・この居場所から言葉を付けているので、こういう表現になるのだけども、心理学のエナンティオドロミアはもっとすっきりとした言葉が並んでいると思う。

”全体”、全てがあったそこから選りすぐってのこの”私”という存在が、誰にも一応あって、中身の良し悪し好き嫌いだけでなく、大きくは環境からその影響を受けて”選んだ”、この”私”が今あって。

この”私”に選択されなかったそれはなかった事にはならないのね。細々とした小さな全てにおいてそんな仕組みが働いてしまうとこれまた大変だけど(それはない)、「ここぞ」「これぞ」というその時に必ず顔を出してくる事、人生の中で「おやおや…これは似たような事があったよねぇ…?」という事がくり返される反発(力)。


その陽・陰、意識・無意識、色々な分野でのどの表現でも良いと思うのだけど、その関係性、間において起きてくる深い変化、大きな変化が現れる。この~10日で身体を通しての体験と変化、その流れが観察できたので、頭の中には断片的な材料がかなり集まったのだけども、言葉を並べて行くにはちょっと足りない…。

とにかく、きちんと反転は必要に応じて起きるという事と、リアルの世界に映る”事象”は、この内面の変容経過(?)または、「そう変わって行くよ~」というメッセージをシンクロさせている、ということと。

私が多用していた”重ねword”は、確実にその一部だったし、そうして目につく重なりは、気のせいでなく「注目せよ」という自らのアドバイスでもあると拾えた。

断片的なもののその隙間は、段々と埋まる馴染む。”私”との間が埋まることで「一体」へと向かう。その様にして確実に築き上げられる。


10日間かけてやっと15日の夜に脚が高くあげられるまでになった。これはすごく嬉しかった。

朝晩のストレッチに、日中の意識的なストレッチと軽い筋トレ。靴下を脱ぐ(履く)という動作が脚が上がらずに苦労していた。

動かすと痛かった事により動かさなくなり、それにより繋がっている、動かさない箇所に別の不便が生じてきて入り混じった。

ただ何かをしなければいけない…という焦りなどはなく、元の痛み(の箇所)は軽く押さえながら、新たな痛みは動かさない事によるものと判断しジリジリ動かすように。普段の動く身体と違って動かない事による苦しさなどからのストレスのせいか、眠る時間はとにかくしっかり確保した。いや、眠かった。

短期での振り返り、流れ的なものはこんな程度。あとは具体的な事象それぞれに入っての事は少しずつ肉がつくのだと思う。


あぁ、そうそう。
15日の主人の誕生日は―――

先月から夏の繁忙期で帰宅時間が遅い主人、お盆前から帰宅は午前様。会社の彼女からお誕生日祝いをもらって帰宅しました。

遅く帰宅した主人は、誕生日を過ぎてひとりケーキを食べていた。

私はケーキにメッセージを付けただけ。因みに私は主人の誕生日前日にケーキを食べてしまってひとり予祝(笑)

日常なんてそんなもんです、そんなもんだという事です。

だけど、ストーリーにするとバカっぽくてなんか楽しくなります。バカっぽい事はけっこう自分を支える大切な存在だと思っているから、止められません(*^^*)


身体のことに目を向ける時、自分が何も知らない事を痛感する。本当に何も知らない人。それだけ普段に無意識で過ごせているという事の証で感謝しかない。

”私”が、無意識で分けてしまっているそれは最も身近にあり、いつもこの「そば」に見えているから一緒と思っているわけだけども、この身体のことを考えればよく分かる通り、まったく本当に遠い存在。

例えば”健康”であることは、最高に有り難い事なんだけど、他者の例えば主人のかつて酷かった手湿疹や、ニコルのアレルギー症状など、私はこの身体でそれを体験した事がなく、まったくそれに関しての内側のことは想像ができない。


「痒いという状態は辛いよね…」、これくらいしか分からない。自分の一部の状態となっているそれは、ない他者に理解されにくい事はある意味当然で、他者のそれをこちらが本当に理解することも同じく難しい。

そんな中で、他者のことなど分からない事ばかりの中で、それでもどうにかやって行くには、コミュニケーションしかないよね。

人でなければ表れている状態をよく観ること、それで少しだけ近づいていく事ができると思っている。

(”かわいそう”という言葉は、私は嫌っていると奥の方で認めている。これは本当に私はこの先にも口にしたくない言葉で、他者へのそれに使うことはほぼない)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!