意識の流れを観ていた
『あー…、多分これ。「私、できるようになるなぁ」』
そう思った。
神通力(六神通)という言葉は知っている。簡単に読んだところ、書かれているそれを意識していないけども、行いが多少重なることと、昔なら不思議な意味の”超能力”に喜んだかもしれないそれを、今は心理学にリンクしている事と考えていて…。
やろうとしなくても色んなフラグをとり続けていて、普通に「できる」と思う範囲に感じたから。
そのレベルというものの見方も様々あるだろうけど、私はそれを目指している訳ではなく自分の状態を観続けて、どこまで能力(脳力)を開く事ができるか、という事しか考えていないので自分基準。
パッと目に止まったワードから、ピッピッと探し出してくる情報。
→←から、”蛇行矢印”を経て、今日は「⇆」を視ていて。
原因と目的、具体と抽象と重なりが視えた、ザックリと。
「たくさんある」と「少ないもの」。
(5/24メモより)
・・・ ・・・ ・・・
こういう”表現”があるかどうかは知らないけれど、少し前から視野に収まる映像(画像)に、”ないもの”が一瞬映っている様に感じる事がボチボチ起きている。
その度にその視野にあった”場所”を直に確認して改めて”ない”という事を確認したりしなかったり・・・、だって”ない”って思ってるし分かっているから(笑)
自分の脳内なんて見えない訳で、でもその脳の働きによってこの目に映るモノ達があって。今それに何か今までと違うモノが瞬時に映るとしたら、その部分の活動がなされている、という風に私は感じる。
こういうコトは何年か前にもあって、同じ状態の経験という意味でなく、その時は横になった状態で脳内がグニュ~っとゆっくり回転するようなイメージがなされた事があった。「何かが変わってる」、そう思った。
瞬間で捉えるようになる。
そしてその精度が上がるためには、エラー・間違いがないと見分ける事ができない。その正誤の両方のデータをこなしていくから瞬時のその判断を、自分自身が頼ってもいいという認識に変わるので、今こなしている…、その様な感じ。
「分かる」
という事のウラで、沢山のボツにしたデータが支えてくれていた事が解かる。
5/25メモ 「シンプルに、単純に」
最近の自分の思考のそれらを観て思うのは、私も言葉として使う”シンプル・単純”というそれは。
実は、表すことがそれだけ”単純に”なっているからこそ、顕れまでに多くを捨象している、そんな風に思った。それを経ての外から直に観る「シンプル・単純」があると思った。
その流れ(経緯)を通さずに直観できるという状態は、上記の流れを繰り返し行ってきた事による「そこまで」という区間を、また捨象した事によりシンプルに直観されるもの、ということが言えると思った。
この太字部分が表の裏側、上に対する下側。イメージする方が早い。顕れに対しての潜りの部分、この部分に置いてくるから”顕”がシンプルに表れる、という表現は使えるように思う。
だもの、イデア界はそれはもう沢山のアレコレがある泉だわ。
・・・
本当に凄いなぁ・・・。
こうして掘り下げようとしなくても、「観たもの・観えたもの」に触れていくだけで、既存(前日メモ)と繋がり、情報は自然と集まり、自分の両輪がまた強く太くなる。
全部、私自身は分かっていなくて無意識にやっています(笑)
それを→ ← 蛇行矢印 ⇆ 再びの➡と、何度か繰り返し観る事で、見えてきた。
5/25メモ
朝メモした事と、昨日メモしていたものとの”表現が似ている”と思った。
それは、”ソレ”にフォーカスしている状態があるから、とまず一つ言えるのだけど、”表現が似ている”とした事で、更に明らかになった「ヒョーゲンが似ている」ということ。
私がメモしたそれは、私の内側を巡り、ごく自然に無意識にこうして”ヒョーゲン”されている。
振り返って(昨日を目にして)気づくこの流れをここでも押さえる事ができた。
派生してスムースに潜って出てくる状態がある、ということが観えたように思う。
この「スムース」を確認出来るようになると、抵抗なく自分の顕れ(≒投影)という事の理解は当然に見えてくる。
朝の状態、まどろみ(トランス)やヌボータイムは、確かに”普段”から観れば「変性」状態で、いつもの見え方とは異なる見え方・捉え方を見せてくれている。
それをこの「普段の見え方」の中で掴む事ができるのが、今のここに戻す「読み返す」事なのだと思う。
・・・ ・・・ ・・・
今日の内容はほぼ、意識側の話なので読みづらいと思います。心理(学)に慣れている方々には、「よく見える」内容になっています。
23~25日にかけて、今まで表現してきた感覚とは全く違う「無意識と意識」のメモの羅列が行われていたみたいです。※メモしている”私”自身は、いつもの様に行いは無意識に書いただけ。それらの流れ全体を振り返った時、全く異なる見え方が現れた、ということ。
【「明らか」になった時、素直な喜びと共に、”今まで”という事も明らかになって必ず、「分かってなかったな…」と苦笑する】
昨日の最後のメモはその様に書いている。
5/17メモ
ふと振り返ったのは。
何年も前、まだ前のブログだった時、「そうか、そうなんだ!」という自分にとって喜びを得られた人たちがいた。
何があったとか一切ない、段々とそこから卒業した。
心に残り続け、今でもたまに見たりするのは、かつては「は?」とか、「どういうこと?」という様な方々ばかり。
印象って、自分の好き嫌いでなくて、脳が”大切なもの”として離さない可能性があるね。
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そういう所は、「脳の働き」に任せたいね。自分の意思では好き嫌い判定するし、クセで弾いたりするから(*^^*) まぁ、それはそれで反応として仕方ないとも思うのだけども。
もう一歩踏み込めるか、そこに留まれるかで後が大分違う結果になるね。”違い”を見る時、何某かの引っ掛かる理由を持っているものだから。
とは言え。
それをその時は見極められないから、あとで「小さな背中」を見る事になるんだよね(*^^*)