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外に馴染む”自分”という存在

先週はアロマオイルを使用したと書いた。
ナッツをポツポツと週ごとに変えて食べていて、先週は「くるみ」を食べていたんだった。眠りが良かったのは香り”だけ”とは言えなくなった(笑)

”何かひとつのお陰”という様に限定することはとても難しく、あれもこれも「これかもしれない」があったりする。

その中で、”これ”の特定の方でなく、それらを必要とする”状態があった”事、そして「その状態のバランスをどこか自然ととろうとした事により、それらの選択がなされていた」という風に考えたらどうか。

偶然を多分に含むその様なことを、自然と選択するというのが、外に感じている事から、”何かを拾っている事”になるんじゃないかと思う。

・・・ ・・・ ・・・

私が良く触れるシンクロの話。最近も触れているし、常にその状態が沢山あるからそこに脳内が紐づけて考える事が多いのだけど、昨日のnoteもまたそれと確実に紐づいていた。

環境と書いている”世界”は、世間とか社会と言われる自分が属している、他者と共有の世界であって、自分というこの小さな世界を出れば、それは近くは濃く小さな重なり、大きく進むほど淡い重なりとなる多重の世界。

その大きな外にある世界、社会に迎合していくという考えは、私の中ではなくて、これも恐らく一見は似たように見える部分もあると思うのだけども、昔からそれはない。

表現を変えていく。

外の世界に合わせることは、様々な世に出ている色々のコト自体でなくて、「自分から見えている”外の世界の流れ”というものとのタイミングを計る」ため。

表で見える動作部分はこの、”外に合わせている(合っている)”部分なので、言葉の意味では迎合と変わりない。そういう意味で似ているのだけど、あくまでも自分側に軸・点を置いたままの場所からの表現(ヒョーゲン)に全てなっている。

昨日の内容を強めに重ねて書いて行くと、全てが自分を主として外に向かう”→”の向きではなく、ここという自分の世界にある状態の”自分”を、主に置き外の世界を見、何かを判断し動きを決めるという判断材料としての外側を起点にしている状態”←”。


何か動作するという動くという事は、必ずこの自分側という場所からになるのだけども、その”タイミング”においては、自分側で決めていない。自分の外側を主に見ていてそこに挟み込める隙を観るような感覚、かもしれない。

言葉の意味から考えれば、この表現の差異も大してないように感じるのだけども、実際の感覚というものは、この意味上は似たような表現の中に全く異なる状態を表している。だから言葉の説明では細かなニュアンスというものが伝わらない。

逆に言うと、言葉上は同じ様でも感覚はそれだけ大きな差を持っているという事になる。その大きな差を現すのに使われる言葉の数はそう多くはなく、その言葉の意味の殆どを埋めているのは、頭の中のイメージという想像。この想像自体が、”こういう事かな…”の「こういう」に当たる部分の元がなければ脳内の映像にならない。


言葉を使った表現は、「自分の居場所」が異なれば、その表現の意味が全く逆になってしまうので、解釈することに捻じれ(反転)が出てしまったりの難しさがある。

常に自分の中に軸・点を置いた状態にある所からのものの見方と、外側に意識を置いてしまった所からのものの見方ではまったく在り方は逆となる上、前出の”←”という外側からの向き的には「合っている」ため、理解は複雑になる。

故の、「受け取り方は”その人”によるもの」という事が言えてしまう。大原則そうでしかない。「自分を見るため」に外側に置いていた意識というものを、時間をかけて外側から自分側へ少しずつ寄せ直して、「自分」という存在を確かにしていくのかもしれない。


観察が外を見ている状態、となると、シンクロなどは意図せずにそうある事が当然のこと、という様に感じているのは以前から変わらない。合う・合わないというのは、人の意図的・意識的な行いによって起こるもので、ただ外の現象の中に在る様な、その程度の意識の置き方では、当然の結果の”結びつき”だと思っている。

人の意思・考えというのは、エネルギーが十分にある。そして人は自覚されている”自分”という存在によって、右や左、遅い早い、行く行かない、良い悪いなど、殆どの事をきっちりと区切った空間を持っている。

その区切りはあくまでも各々の「個」という存在によるもので、それは大きな外の世界とは、全く関係のない区切り。それが通用するのは「人の世界(社会)」という一部の空間においてのみ。


その空間を除いた、淡い大きなもっと他と色々を共有する世界という空間においては、区切りのない状態に意識がある状態にすると、その空間との一致、引き合いは当然なのだろうと思っている。

自分以外の空間というだけでも幾つもあるようで、私はそれらの詳細を知らないけれど、この頭の中に湧くそれで視ても、その世界それぞれの”ルール”というものがあって、他の世界に行くのならその世界のルールに馴染む必要はあり、また同時に、通常に持っている”人”のルールは他の世界では不要となる為、外さなければならない。

他の世界に自分の世界を持ち込むことが、どこかでは阻まれるという事と理屈は同じと思う。

外の世界に迎合するのではなく、あくまでも他の世界の体験・経験をするのならば、所持しているルールは一旦お休みさせなければならない、という事は言えると思う。


追)
初めの方に「…”外の世界の流れ”…」と書いているのだけども、これも先日少し触れている、その流れと表現している、そう見ている(見えている)のは「人」であって、記憶により”時の経過”という感覚を持つ人は、それを”流れ”と見ることが自然となされてしまうように思う。

そうなるものは仕方ないし、人に記憶の装置がある事は優れている証拠でもあるのだけども、何でも良いことばかりでなくその裏側というものがある。

あ。
メモを入れるつもりで忘れていたので、以下に。

”タイミング”は、全体という目の前の事象から見ればいつも「合う」わけで、ズラすのは人の在り方、思考。以前にも書いたシンクロのこと(その一部)も同様の考えができる。

”その場”という居場所が、”自分”という在り方をした存在と「合って」いれば、シンクロするのは当然という確率まで上がってくると思っている。

外の全体という大きな世界(社会)から色々な形・部分で切り取ってできた存在、”自分”というものは、同様の場に身を置くことで、重なりは必然的になって行くと考えている(それだけの理由では成立しない事も念頭に置きながら)。

(メモを元にして今回は書いて行く予定だったものを、残像(淡い記憶)のまま書き出していった結果が今日の内容です)

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☆うみのみか☆
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