好きな自分とは
アンサーってちゃんと来てるよね、絶対(^_^)
昨日いつものように、夕方になって2Fを片付けに行った…窓締めやトイレへ挨拶、例の「緑」に挨拶するだけなのだけども。
主人の部屋のカーテンを閉めるとき、「フック」が取れてしまっているのに気付いた。
そこのカーテンフックはプラスチックタイプで、両面テープで壁に接着してあるもの。
「取れちゃったんだ…」
と、思いが終わらないうちに“あっっ”と思った。
『引っ掛かり』が取れた!
直ぐにそう判ったから。内心で“ありがとう”って思いながら流れがスムースになる事がイメージされた。感謝♡
(昨日記事の冒頭に「私の引っ掛かりの多くは『お金』にある…」と書いているから)
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”好き”な自分には色んな自分がいる。
珍しく結論から。
「こういう所がイヤ(嫌い)だなぁ…」と思う自分は、偽りの可能性が高い。
だって、色んな自分が「自分そのもの」と見えている(認めている)から、それが嫌いな訳がない。
違う角度から、
「嫌いな訳がない」というのも、始めは”ヤダなぁ”だったとしても、それが可愛かったり、良さげに見えてきたりして、「魅力の一つ」に映ってくる。
だから余計に好きになる。
「その自分」を許す(許す:私は「自分自身に許可する」の意味で使っています)から、”好きな自分”という枠が広がった状態になる。
だからもし、”自分のイヤな一面”があるのだとしたら、それは「本来の自分」でなく、「違和のまま抱えた偽りの自分」かも知れない、と思って見るのも◎。
ネガティヴ傾向が強くても、それを丸抱えにしてしまえるのならば、それはもう「自分として見えている」のだから、魅力になっている訳で。
私は昔から自分の好きな所・イヤな所をしっかりと認識していた方だと思う。内部対話も習慣だったから。
イヤな所は「怒りっぽい所」だった。それが今は仏になった訳じゃないけども、怒る理由も理解し(認め・肯定)、ムダに怒る事もない。
本気で嫌だと思うものは、本気で変えていくから手放されて行くし、握ったまま丸ごと抱える選択ができるという事は「その自分を丸ごと受け容れた」という、その自分を自分に許可できた、という事になる。
どちらにしても、「偽っている部分」であれば、どんな形であれ、自分に残らないはず。残ったままだと自分が心地良くない、不快を感じ続けるからね。
だから、自分が許可した「自分」というものの内容は、世間から見てレベル云々、優劣などで図られるものではなく、自分自身の快・不快でのみ測定ができます。
周りはワタシの快・不快なんて解る訳がありません。その感覚を持つのは「ワタシ」しかいないのですからね(*^^*)
全てがステキな自分に見えてくるのです♡
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!