メリットを開く
「言葉」にした途端、その意味の中で考える・その世界での解釈が始まってしまうので、その時点で何かに包まれる…、”現場”から離れるとも言える。
”状態”の表現は、かろうじて両方を繋いでいるような場所かもしれない、そう感じた。明確な意味の言葉の手前の、また現場を感じながら現しているそれというものの、そんな「あいだ」をのぺっと繋いでいるのが状態を現すような、のっぺりとした表現。
「時間」という意味を少し解き、またなぜ「どちらでも良い」という表現を多用するのか、という事をやんわり書いていく。
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その状態を現していた期間(時間・時代など)は確実にあった。それを経なければ”言葉”によってこれだけコンパクトなやり取りにまで繋がらない。目に見える形、”言葉”によって理解への直結は直ちになり、考える区間を省いてそこに辿り着けるようになったショートカット。
「今」という場所での対応しかなかった。殆どをその様にしていた元々の動きから、安心や効率のためにどんどん「先をこの時点に持って来る」ことで、現在地はどんどんズレて今という所から意識はズレていく。
当然、今というものの中が、”先”のことで見えなくなる。
人の意識が物事を連ねて考えることを”なし”にできない為、過去から続いていると考える情報はここにあり、そうであるなら、現在という今この場からもまた”未来”という場へ向かって何かを編み始めているということ。未来の始まりは今であり、「今」というのは”基本の場所”になる。
頭の中で何かが線上で実際に連なっているわけじゃなく、意識・無意識含むフォーカスによって、引き出される事が(しばらく)継続するので、それを「繋がっている・連なっている」という表現ができる。表現に留まらないと思うけども。
実際に、それが真実かどうかとか、これもありでは?!とかそうであってもそうでなくてもまったくどちらでも良いというのは、どの様な状態であっても、「その目の前に感じる事から、自分の視野・視界を”開くこと”ただそれだけ」という風に思っているから。
全ては解釈、”どの様に捉えるか”と表現ができる。同時にこの表現は、別の面を引き出してしまい「前向きに、ポジティヴに」と、中身の認知をせずにただそのノウハウで処理を済ませてしまう、ということはデメリットだと思っている。
ポジティヴであることを単に目指しているのでなく、そのモノゴトはそれとして正面で捉えた上で、そこから何を自分が吸収できるか・拾えるかという事なのだと思っていて、その行いと姿勢が「ポジティヴ」に見えるという事なだけだと思っている。
モノゴトの様々な側面はあるのは事実で、それが明るい方を照らしていればそれは問題なく受け入れられるのだろうけども、環境が変わった時には、それは違う面を発する―――、本当はそれ自体は何ら変わってなどいない事も多いけど。
そのもの自体の変化もケースによりあるけれど、人の世界の多くは、そもそも目の前をそのままに観ることが難しい状態を持ってしまっている。それが各々の持つ個の頭の処理によるものだし、それは、毎度ゼロから考えたりしなくても”再生”すれば、解釈処理はできてしまうから。
それでことが済んでしまうために、目の前のことを都度”観て”いたりしない。記憶から引き出せばどうすれば良いかも大体分かる…既存の出来事に対しては。
既存でないこととの出会いによって初めてきちんと「注目」し、「そこ」を見てそこからの展開を考えて行くことになるわけで。本来の、元々の在り方はここにあると思っている。
想定が効かない、どの選択が最善かが言い切れない状態は、まさに「今」という所からこの先を作る状態であって、現在において”最先端”にいるという事でもあって、現在というこの”先”に対応することは観測含めてやってみる事しかない、と思っている。
この時「正しい」は無効。予想通り・想定通りにならないことは、物事の”ポイント”であるのだと思っている。その時はただそこにある事への真剣な対処があるだけで、その連なりを作ることで少しずつ”線”が現れ道筋をいくらか“感じる”ようになる。
内側からフィルターを通して見るのでなく、フィルターは外さざるを得ない状況を経てものを見、そこから少し流れになって行く、という様に感じている。
フィルターを外すとは、換言して意識を外しているような状態。意識を使える場面は、既存の範囲。頭の中から一度出ないと見えてこない状況がリアルにはあるので…それがリアル。
その域を幾らか進んで行くことでしか抜けていけない状態がある時は、それをただ進む。「その道」と先に決めれば、それにより発生することに暫く対処で進み、線が太くなり少しやり易くなるまでは根気しかない。
想定に収まらないという事は、現実に引き出されている状態なのだから、その現実の中に入ることでしか現場は見えないのだろうと思う。あまり頭の中に長らくいると、現場の感覚は鈍る。リアルは時に容赦ないので、そんな事を時折教えてくれているのだろうと思っている。
”どの様でも良い”という表現は、認知のこと以外では、「具体的なことから目線を外す」事に一役買っている。どちらやこれという具体的なことは、それに完全にフォーカスした状態があり、そこから物事はスタートさせているものだから。
その事自体は変化していないのに、環境によって違う面が出る―――というのは、見る側の話であって”その事自体”ではないという事は、よく触れていると思う。だから”何を拾うか”というその行為は、メリットへ展開させることができるという考え方。
私が過去にやっていた、「そのこと自体を”良く”解釈してしまう事」とは似て非なるものだという事は、重ねて書いておく。
モノゴトそれ自体はあくまでも、そのままに観ることから始まる。