”旅”した後の感想
多分恐らくmaybeきっと…。
何度も反転、反転、ひっくり返りながら「どちらか分からない」というそのフルイに自らをかけ(かけられ)て、やっと少し”偏り”がなくなっていく。
何かが「分かる」というのは、対象に対して自分が判定できる状態であって、それを偏りという。(ここの偏りの意味は、「個性」という話ではない事と、この”判定”に正誤は全く関係ない話)
それがくり返されると、反対へ傾きを修正していくような流れになるので「分かる⇒分からない」になる。
↑これは、少し変形した形でも、最近実感していた。
「分かる・分からない」の話、直接でなく、”自分のフィルター”という目線での捉え方だった。
何かが少しできるようになってくると、調子に乗ってしまうもので、少し”理屈”が分かってきたころの自分を思い出しながらそれを感じていた。
そして必ずこの「後に」みえてくるものは、「なんも分かってなかったな…」という感想。その、既に過去にやってきたことは変えようがないので、別に何とも思わないけども(悪いことをしてきた訳でもないので)、ただ、”現在の思い”としては確実に「分かっていなかった」という思いを感じている訳で。
この度々起こった経験が、次からに少しずつ活きるようになってくる。
表現としてはどの様でも良いのだけども、フィルター、メガネ、などそれを通して見ること、という意味で書いていきます。
元々は全然ずっと昔には”フィルター”という、世で使われている言葉として、そこから簡単に得られる表現として暗に使っていたと思う。だけども現在においては、「変形した形」として書いた過去の経験との照らし合わせを観た時、”内部からのもの”ということが理解されていた。
《私の”フィルター”からしか解釈できていなかった》
当然のことで、解釈するのにこの頭の中で処理がなされるのに、人の脳内がここに映る訳もなく。だけどそれでも、当時の自分としては、「十分にこの”自分”を抜いてそれを観ている…」というその感想を持っていた事だけは今でもしっかりと憶えている。
それが、現在の自分のものの見え方を通して、当時のそれが引き出されてきた、という事で、そこに明らかな「解釈の違い」を観ることができたので、現在では”内部からのもの”という感触を持った。
具体的なことは既に忘れてしまっているので、その”残り香”的な表現しか出来ないのだけども、その照合で感じたのは、「私の中にあった」ということ。
角度を変えて並べると、
・そこに表現(ヒョーゲン)されている事に、私が”残って”しまっている→だから、「○○ではないか…?」という疑問が置かれた。本人は”そういう事ではない”という様な表現をしているのに。
・上記に絡むけども、「本人が気づいていないだけではないか…」と自分自身のことは分からないのが当然で、”他者”である今読んでいるこの「私」の方が分かっている(読めている)のではないか、そう思った。
感想はざっと、この様な感じだったのだけども、勿論ここに書いたようなケースも十分にある事なので、だから本当に難しいとは思うのだけども、これに関しては私の中の、他の事も含めての”照合”がなされていたので「そうだった」といえるケース。
感想に戻ると、これは私の中に残る「見方」が相手に投影されたものだったという事がよく分かるケースだったと言える。
まず現在においての私自身が、十分に似たような表現の仕方をしている事が、自分の目に映っている…、そういう”言い方”に事実なるということ。
そしてまた別のものとして、外の世界を見た時に映る、そこにあるその世界を覗いた時、自分も普通にその様に”見られることもある*”ことで、当時の事と重ね合わせて、「こういう事だったか」と理解に届いた。
(*見られること。外の世界というものを表現上に持ち出さないと、ここに説明することが出来ないので書いています。”外の世界”を見ながら「自分の世界」の説明をしているに過ぎない。見られるという事を”コトの事実”の意味で使用しているのではなく、あくまでも私の観測目線のものとして書いています)
その様な経緯を経て、漸く”あの時”という解釈は「自分がそこに映っていた」という風に読むことができた。それによって、内側からの映し方、外への”投影”のされ方は結果的に変わる、という自然な解釈に繋げられたのだと思う。
言葉を理解してその意味を何度も身体で覚える様に沁み込ませ、その後にやっと、内側からの「こういう事だったか」という内部からの感想が上がってくる。これもよく書く”パターン”である。
目線を変えるというのは、見るものを変えていく、考え方を変えてみる…そしてそもそもの今までの「自分の内部を壊す」という事で、映される世界が違うものになる、のだと思う。
だけど、この現実世界で分からないばかりになってしまうと、これまた不自由なことになってしまう…、何も決めることが出来なくなってしまうので。
物事は、傾斜がないと進んで行かない。これは本当に日々の出来事から実感している。だから幾らかでもその「傾き」を付けるという事が、”決める”ということ。
世界の、大きな世界の流れに任せてそれを読みながらこちらの姿勢を決めて行く、というはもちろん状況的にはあるのだけども、人はその方向を「決める」という事ができるから。
アタマの中の動かす場所が、変わるという事なんだよね。
同じアタマの中でも使う場所が異なれば、出てくるものが変わるという自然な”結果”。私たちの脳は、このアタマでどうこう考える範囲「外」の場所を活用すれば、「違う世界が見える」というのは、事実なのだ。