飛び出てしまったもの
”自覚”って。自分の認めたい所・事、じゃなくて客観して”そうである事”を認める・受け容れる事と思う。
そうする事で、本当の自分が素直に”伸びてくる”んじゃないかね?と思って。
”そのまま”を観る。
見たい所(良いと思ってる所)だけじゃなく、反対の見たくない所(フタをして知らんぷりしたいイヤな所)も見る。その両方が自分だと。
良い所を評価してると”特別な自分”が魅力だと思ってしまう。簡単になくならないです、この気持ち。だって嬉しいもん、なんか抜きん出た感じがするから。
そんな所も自分の中にあるとそのまま認めてしまうのと同様に、「基準」と思われるそこに満たない、変な自分、出来ない自分も”そのまま”見るだけなんだけど、これがやってみると中々難しい事なんだよね。
見つめるだけだから、卑下する事も責める事も必要ないんだけど、なんらかの感情が湧きおこる。「うわ~~…」つって。
いやね、ホントはこの感覚の方が「おかしい」のだけども。本来はそのままで見たら良し悪しとはならないはずだから。特別も変人も、両方誰にでもあるはずだから。
自分の中に設けた基準を価値観と言い、その価値観はみんなそれぞれに違うものを基準にしているからまちまち。
同じ「基準」があるとするならば、それが社会一般的に言われる基準、ルールで、みなと一緒という事になる。
そう言う事が必要な場面はあるけども、自分を殺して揃えてしまうのは全く違うし、違う事が何か問題がある訳でもない。だけど、私達の中には、当たり前にそのモノサシを持っている。やってないつもりでも。
「そのままに観る」
という事は本当に難しいと思うよね。
自分の中で何か引っかかってくれれば逆に分かり易い。「何で引っかかる?」と探れるから。
自分の「その感覚」がなければ、その範囲のままで他人の言葉を受け取る。それが自然。
そしてふと思う。
その自然さえも”疑え”と。
自分に引っかかる、引っかからない…。この自分にとっては「引っかからないからスルーしている事」の時、相手の”引っかかる”を意識に上げる(イメージできる)事で理解は深くなる。
先日ノートに書いていたのだけども。
私はこう考える。
この人はそう考える。
客観視する事、相手の主張を受け容れる事は大切と思うけども、そこにあまりに頑丈な衝立をしてしまうと、ただの遮断になってしまうな…と思って。
ここで分けて考える事の目的は、自分を入れすぎない事、相手を尊重する事だから、
「自分」にいたい時ほど相手に、「相手」の時ほど自分に。
という、逆を取ることが、丁度良くなってくる・・・。
と一先ず書いといて。
全部、ぜ~んぶ、「ぶわ~っ」と湧き上がり、思いついてメモしているけども、自分が熱を上げ過ぎる(←自然と)と急に、
「そんな事もみんな、今までのどこかで入れた古い記憶だよな…」
なんて冷静になってしまう。
それ位でちょうど良いんだろう、きっと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
いつだったか主人と「変わり者」の話をしていて。私は自他ともに認める変わり者なんだけども(*^^*)
私から見て主人も十分変わっているからしょっちゅう「宇宙人!」みたいに言うのだけども。主人曰く、
「同じ所じゃなくても、みんなどっかしらで”変わってる”でしょ?そんなの普通だよ。」
的に言った。そうそう、その通り!なんだけど、言葉で言うのは簡単なのよ(笑)口で言っても「変わり者」って自らを芯から認めている人って、意外と少ないと思うのよ。
「特別」にはなりたいけども、「変人」にはなりたくない。
私の解釈では、”普通ゾーン”からはみ出てれいば十分同じで、
『特別=変わっている』と、同様なのよね(*^^*)
変わっている、って特別な事だよ。故にみなが特別で、変わっているという事になるんです。