自分の拡大とは世界と重なること
(音声noteの説明文から続いています)
ずいぶん昔を振り返った時、やって来たことを”否定”した事があった。いや、やって来たことだけじゃなく、そう捉えてしまった”偏り”、それがいけなかった、と。その時は一時期、本当にそう思っていた。
だけど、もう様々なことから色々が角度を変えて、目にする様になってくると、ソコが問題でないことが判り始め、また「それが活きてるじゃん」を実感する場面に出くわす。
その”でき事”は全く変わってないのに。
解釈が変わる。
私たちは「解釈」に翻弄される。
完全に「外」という世界へ目を向け、そこを見ながら私達の前提は*、その”結果”というか、答えらしきものを自らの中に取り込むことを目的としているのだと思う。
それは、自らを社会と馴染ませるため、”私”に、社会での仮面を身に付けさせるため。自分を社会へ溶け込ませる表現でも(外へ出るイメージ)、オトナとしての一面を身に纏う表現でも(こちらへ持って来るイメージ)、どちらでも良いのだけど。
要はこの「自分」をどうにかしようとしているのだけども。
考えてみれば、過去のことなどどうにかできるものではないのに、どこか過去のそれら経験がまずかった様な、そこに非があって、「今がこうなってしまった」と、自身を静かに見えない所で責めているかのような、そんな事が行われていたかもしれない。
*の「私達の前提は」としながら、それは当然、「私」のフィルターであり、例えば正反対の主人は、いつも「オレは違う…」というスタンスを示した。その在り方は言動が一致しているものだったので、外のものを誰もが「自分の中に取り込もうとしている」訳ではない、という事はちょっと補足する。
で、何年もかけて自分の様々な経緯から感じるのは、大きな流れ・目線で見て、「右(左)に~、左(右)に~…」と揺れてきたということ。これ自体も「どちらか」という感覚が自分の中に残っていたため、「何かに決めたい」という、何か1つの状態に定めたい=固定・安定という、無意識に持つ不安定な状態への嫌悪だったようにも思う。
その”揺さぶり”の中にあることが苦しくなり、一時は、外(の情報)を遮断するという事も行った。同時に自分の中から湧いた言葉、「そこに居てみ?あちこち行かないでジッとしてみ」に従い、自分の中に留まる事を知った。
・・・
人は。
人は本当に、「知っている」のだと思う。
20年近く前、会社の同僚との会話は今でも忘れていない。
『なんかさぁ、(適当な)道幅があってさ、右へ暫く進んで行ってぶつかって、今度は左へ暫く行ってぶつかって…くり返して段々真ん中に収まるんだよね』
どうしてその様に視えたか(感じたか)は分からないけど、頭にその様なイメージがあったから言葉にしていた。
何も考えずに「ただその様であった」時の方が、その在り方は自然な自信があって、もっと向上する様に、何かを目指して進むように「外」を見るようになった途端、迷い始める…、様々な”答え”に。
そしてそれらを前にして、今まで普通に持っていた”自信”すらなくなる。途端に右往左往。広い世界を知ってしまう。
今までよりも広い所に出てみたから自分が小さいことが判ったり、それによって時に自信もなくし、自らの今までの在り方さえ否定してしまう様な考えになってしまう事もある。
ならば、初めから主人の様に「外は関係ない」と自分だけを見ていれば、信じていれば良いのかといえば、少し工夫は必要で、それだけではどうしても”不足”が生じるというもの。自分の不足を自分に足すか、外側との”縁”によって繋ぐか、何れかの形で補う必要が出てくる。
だから、「なんだ、結局…」という答えのために迷い、あっちへこっちへと揺れていくものなんだろうと、私は感じている。そして十分に揺れて振り子は収まる所に収まる。
大分前、私は「中庸」を目指していた。
大した理解も出来てなくて、単純にただ「真ん中」でいる事を目指していたと思う。
”目指す場所”というのは、目指していくのではなくて、結局そこに辿り着く”場所”なんだと感じている。目指している時というのは、まだ「カタチ」に捕らわれた、パターンを身に付けるための学習段階で、「なんだ」「やっぱり」という”諦め”でやっと明らかになってくる、という思いがする。
その諦めによって明らかにされた事により、それに対しての本腰が入ると言うか、頭でなく肚で理解する様になるという様な、身体内の”氣”の移動、という様なニュアンスかもしれない。
”翻弄された”と感じるそれにより、結果、「な~んだ…」と思うことで「自分に戻って」いる。その一時の感情としては残念!というマイナスな思いも湧くような、それこそが実は「自分側」へ戻してくれる動作(ハタラキ)のようにも感じる。
その時、「外のせいで」となるのは、幾らかでも外に意識が残されたままという事であるし、少しずつ何度でも戻されることで「自分でいい」という事が積み重ねられるように思う。
そんな、行ったり来たりが、「自分」を創ることに繋がっているのだと思う。不安定になったら、「自分の位置」に戻って安定を取り戻し、また揺れに出て良いのだから。
そうして「自分」を拡げて行く。