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引き合う状態

昨日、流れてきたポストで旧札と新札が並んだ写真と、「どうして新札はダサく感じるのかな」的な言葉が付いているのを見かけた(パッと見ただけ)。

この時の感想が「なるほど、そのまんまだ…」と思った。

人の意識そのもの。

今までの慣れ親しんだそれは既にしっかりと習慣となり、目にしてもすぐに”良さ”など感じないのだけど、「新しいモノコト」に対しての人の持つ意識というものは、基本的にそのまま呑み込まない…、馴染みがなくしっくりと来ないそれをそこに見る目線から。

そしてこれが少しずつ見慣れて、自分の中に”馴染み”として浸透してくると、今度は今までの知っているものの中との比較が可能となり、良い悪いや、好き嫌いなどがハッキリしてくる。自分の中の”無意識の思い”との強い結びつきが大体”良い”と感じる所と思う。

お札に限らず新しいモノコトというのは、とにかく意識がそれを弾くような反応をする。

コトがなかなか変わらない、進んで行かないことは、普通にやっていれば全くその通りで、この旧態依然を突破していくことに何とか工夫を凝らしていかないと本当に変えるべき所も凝り固まって、じ・えんどという事になっちゃうね。

さぁ、どうしよっか('ω')ノ


今日は、昨日のnoteを少し思い出しながら重ねるように書いていくのだけども。

あの、本当に、もう何度も書いてはいるのだけども、使う言葉がどうしても見えない系へ雰囲気を傾けたり、はっきり示せば超リアルなガチガチ感が出てしまったりと、人はその言葉・表現から自分の内にある雰囲気で読み取るので、”その世界”で頭の中に展開してしまうのだけども。

だから少し昨日の中では、「言い方を変えると…」として両側からの言い方で書いたつもりなのだけど。

その感覚・感じるコトに対して、”そうなる事”が何ひとつ疑われない状態というのは、事実普通にある事で、またここの詳細の表現もコチャコチャするけども、単なる思い込みから始まるそれでなく、頭の中の色々な働きその場所が、しっかりと一度に重なるとでも言えるようなその「当たり前」という現れ方を掴んでいる…「掴まされる状態」というか―――。


思うとなしに思わされ、そうあるかなの”?”も何も「こう(だ!)」というそれに、この”私”自身が強烈に引き付けられているような状態といえる強さが、この中”頭”に発生するような感覚…。

意思によって強く引き寄せてしまう状態と表現しながら同時に、その逆のそちら側からこの自分が同じく引っ張られてしまっている状態がある、という意味で、まったくどちらからでも表現が可能な状態がそこにあったと後ならば言葉を付ける。

で、意思(意識)をあまり強く持たずにただホワンとそれを活用している状態から、多分殆どの多くは依然、その状態の方が軽やかにシンクロ的に重なるのだろうけども、もう少し意思(意識)を強めに使えるその場でもそれは「ある」という様に感じた。


もうちょっと、おかし過ぎる内容だけども、ホワンとした所から更に”奥の”という感じがするので、本当に針の穴を通すような、超限定したナニカでないと通常ではあまりないだろう…と思う。言葉で現したこの事を、頭の中のその両方から引き合うような強さを勘違いして、意思(意識)だけで引こうとすると大概は”単なる願望”に変わるものだから。

人の営みの殆どは、人が直に動きコトが進み消化され進行していくわけだけど、こういう”見えない所”を使うことでのそれの対象は、大体「コトを動かす」などの直接のどうこうでなく、人が触らない・触れ(られ)ない間接的な部分、何かと何かのアイダとか、そういう類のもの。誰もあまりそのアイダにあるモノの事などを思ったり考えたりしないから。

具体的なコトというのは、人が実行していく所でそれが確実だし、やらなければならないのだと思う。決して無理無茶を実行することなんかでなく、精一杯自分を使った上で、最後に何かが入る(ある)のだろうと思っている。


それを、その時に起きてくる事を「神の力」と表現したり、「天からの助け」でもどのような言い方でも良いと思うのだけど、実際に”その時”に初めて動くことがあるという事だと思う。

外を見る目線で書く時もあるし、今まさにその一部としてこの自分が何か動かされているという様な状態もあるわけで。この「動かされている」という表現、感覚は、自分が精一杯の手を尽くし伸ばしてみたその時にやっと何かに触れるような、そんな所を感じるのだろうと思う。

これは表現だけども、脳内の状態はそういう事。

それがどこかがかなり省かれて、端から”手を伸ばしていく”という安易な形が多くなったように感じている。

奥の手が生じる時、その時は”私”という存在の望みではないと思う。

・・・

少し前からどんどん思いが強くなっているのだけども…

若い方々の大活躍は当然に必要で、しっかりと前に立っていかなければならないものだと思う反面、やっぱり馬力があるのは「中年」の年頃だと感じている。

そういう中を通過してきているから身に付いたものがあり、体力だって全くない訳じゃない。支えるにも力強さとしてもこの強さがなければ「やらずにいる」ものたちが重すぎて若者だけでは牽引できない。

踏ん張りを見せられるのも、時に今では見つけづらい過去からの知恵を出せるのも、中年の経験が少なからずあるだろうと思う。中心世代でなくても、かなり重要な足腰になる世代だと思っている。

勿論この年代だけがそうというつもりはない。全ての年代において、それを持っている人たちもいるのは当然のこと。「中年よ、端でも踏ん張っていきましょうよ」という思いを込めての話。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!