いつも、あなたであれ
ここ数日の記事は、すべて10/11のそれぞれ数行のメモからここへ移し・”肉付け”をしていました。
今回もその一つです。
(分けずに書いてしまったのでいつもより少し長いです)
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「あなたであれ」
自分軸になっている人って、強いんですよ。
そこに”自分”しかないから。
世間の考えるそれではなく、とても”影響力”があります、その存在―――。
ワン達との関係から教えてもらった事。
《人は誰か、何かに寄り添って欲しいのではなく、ただ「そのままであって欲しい」と思っている》
私は、そう思っている。
何か、誰かによって”自分”が埋まるのなら、それありきの構成。場面によっては、そうでしかいられない事があるのも事実。
その話でなく。
相手が、「いつもと何ら変わりなく、今までと全く同じ接し方をする」というその、ごく自然な態度・在り方に、私は気づかされ、心からの納得をした。
そこに生まれるのは、孤独という悲しみではなく、微笑みながらの安心感だった。
ワン達の在り方を見て、そうある事が当たり前なのに、自分の傾きによって、そこを埋めるように世界を見る(視点)。ワン達は何も意図的でないけども、人はそれを”分かった上で”、行ってくれる時がある。
そこに、相手への信頼を見つけることができる。
私が何かに悲しい時、我が家のワン達は私にいつもと変わりなく接した。よくある「犬と飼い主の物語」のような心温まるストーリーなんてそこになかった(笑)
ワン達の態度を見て、そんな期待をしている自分に気づかされ、内心笑った、実際にも笑うしかなかった…、「何を期待してんの?(*‘∀‘)」自らに突っ込む。
過去にそんな事を1~2度経験した。
いや、他のお宅ではその様なものを語れるストーリーはあるかもしれないので、それはそれとして、我が家のワン達(現在4ピキ)の態度は、私に対していつもと変わらずに接してくれ、その時、「私を”いつも”へ引き戻してくれている」、そう思ったことだった。
時に寄り添う事で自分の何かが救われることがある。だから私も場合によってはそうする事もあるかもしれない。恐らくとても分かりやすいそれは、方法として私はほぼ絶対にやらないので、”しない”という風に言っても良いかもしれない(笑)
そして、エピソードでは犬の話をしたけども、これは過去のどこかでも多分何度か書いているけども、人がそれをしてくれる、その様な態度で接することのできる人がきちんといるということ。
同類・同族(種族)だと、助け合いと同等に、”甘え”も発生させる。それはすぐに依存へ姿を変える。その関係性もまたありだけども、ここではそれも通過していきます。
人によってワン達のしてくれたその行為がなされる時、ワン達へ抱いたものより全く大きな期待を抱く事に気づく。行いの結果はとうぜん”同じ”なので、期待外れ「してくれない」という全くおかしな思いがある事に気づく。だって、相手の行い(態度)は同じでしょう?何が違う…?ワンは良くて人にはダメ?
同じ様に、相手はただ「相手であった」ということが、そこに見えた時、「…そういう事か」と思った。相手は全く関係なくて、その奥にある「自分だけ」だった。
その様にして自分の傾きを、何かあるごとに傾けることをする私たち人間は、自分が傾けるたびに、それに見合う(支える)ものが必要となってしまい、その傾きを強く、大きく無意識にしている時ほど、「相手が普段通り、いつも通りである事」が最大に自分自身への支え、だという事を感じた。
だから。
”傾く”状態というのは、力がどこかの角度から見れば弱くなる。周囲によって起こしてもらえることも有難いけども、「自分」ということを見続けることをしている最中だった私にとっては、自分によって傾きをつけてしまう”相手”より、いつものままで態度も変えないそれの方が、「よく自分が見えた」、と感じたものだった。
一時の感情としては、「世の中、誰も助けてくれないじゃんか」と思った事もあるけども、ワン達の在り方を見た時に笑えた…、そう言う事か(笑)と。
そうすると、人のその様な行い・態度というものは、相手への敬意や、私には「信頼できる人」という風に見え始めた。
感情的に見たらきっと、目の前に自分の心も動かされてしまう様な場面があるかもしれないその状況で、自分自身に傾きをつけることなく「そうある」ことは、冷たい事ではなく、それ自体が決して簡単な事ではない、れっきとした技術であるから。
それを感じる時、相手への敬意と信頼する気持ちが湧く。ワン達は技術でなくそれを素で行うわけだけども、人は感情があるからそれを少なくともその場面では意図的に閉じなければいけない技術。
ただ「そうある」ことで、十分な影響を及ぼしてくれる。(そう努めてくれるケースもあるでしょう)
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強くあろうともしていない。
ただ”ある”ことで、そう思わせる(思われる)ただの存在(感)。これが、表現として”強く”、この状態が影響力がある。
自分が”敵わない”のだ。
「何もされないソレ」という在り方によって、それを示せるのが強い。相手はトイプーだぜ(笑)
だから恐らく、”相手”は両方…すべて持っている存在。そんな強さと、守りたくなる、守らなければならない弱さと。こちらから、様々に全てのコトを引き出す相手が最強だ。人で言ったらその存在は何になるのかしらね。
私たちはいつも、「自分の中から」何かを引き出す。(誰か)相手がそれのお手伝いをしてくれるきっかけを与えてくれたりする、その中で。
誰かという存在から、様々なモノを”個の中”から引き出されるという事がよく見えてくると、そこで大きな気づきがあると思う。
「自分の中から”色々”が、ポコポコと出てるんだよね?」と。ということは、すべて自分の中にはあるんだよね。
「すべて持っている存在」だけが全てを持っているのではなく、自分という存在もまたきっと、持っているんだよね?
という事は、相手はどういう在り方であったかというのが、最大のヒントであり、もちろん鏡であって。それは真似ではなく、”在り方”というそういうものである、というところに注目。
この「自分であること」というところ。
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「自分軸」は、昨日の”価値観”という所とも重なってくるのだけども。
それはともすると、とても勝手であったり、人からは到底受け入れられないという様なものであったりするもので、だからそこ「自分」というものに紐づいている訳だけども。
そして世にいう「影響力」というのは、私達が認識する入り口から見て「その様に”解釈”するもの」と、内側から「よくは分からないけど…」と感じてしまうものとがあって。
ここに人を超えた「イキモノ」としての感覚を動かされているわけで。頭では別にそうは思わない…けど、生き物としては(何か)は感じるという様な事が潜んでいる、と言っても良いかもしれない。
我が家のワン達をみて、そこに「他人軸」なんて微塵も観ることはできないし、それを「我がまま・勝手」という風に感じることももちろん一切ない。イキモノは、「同種には優しくて同時に厳しい」という事ですかね。
人の世界(社会)においての話になるから、思いや考えが入り複雑になってしまう独特。本来ならば、在り方は基本的に変わらないだろう…、そう思う。”外側の範囲”で考える限り、本質(内側)部分は見えなくなる空洞化。進歩と共に抱え続ける、人の課題なんでしょうね(*^^*)
「自・他」ということの簡単な”結論(感想)”を一先ず書くと。
「私」を主として書いている時でも、必ずそこには「他者」が映っているということ(本質はどちらか話ではない)。言葉はその「面」しか表せていないものだから。(「そこしか表せない」理由は音声noteで軽く触れています)
(長くなったついでにオマケ)
彼らの詳細を少し付け加えると、例えばワンがイタズラしてビリビリに破かれた、綿が出まくったベッドを持って、「だれ~やったの~」と私が言ってゆっくり辺りをみると、関係のない子たち(ミルク・ニコル)は、「ママ、落ち着いて~!」と近寄り、前脚を私に立ててきます。
はい、当のご本人、ピースは背中を丸めてそ~~っと小さくなるような態度で背中を見せます、「やっべ~」って(笑)えぇ、そしてライトくんはいつも通りでそういう事に全くの無関心です(*^^*)
同種間においては、横並びの”助け合い”という様な見方ができるのかな…?と少し感じたりもします。当然ながら私はこんな事をワン達には教えていないのだから。
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!