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ずっと一緒に居るんだけど…

”何だろう…不思議な感覚を持った。
人は既に(多くは)「現場から直に拾う」ということが、出来なくなりつつあるのか…🤔
情報(空間)から認識することが優位なアタマになっているような…。
そんなイメージが湧いた。”


これはいつだかにポストしようとして止め、こちらに保存しておいたもの。

初めに”想う”ことによって出力、それを自ら目にする事により更に角度が増えるため、あーでもないこーでもないが続く。その続きはメモ帳に一部続いた―――、殆どはアタマの中に残した状態でメモはメモ程度。


昔と違い、現代は本当にちょっと調べれば、色んな情報が手に入る。量的には過多、最後は結局自分の目で判断をする事になるわけだけども。

私は、自分にないものは他で補えることは有り難いと思う質なので、この手段も含めて様々にあることは嬉しい…、全てを使いこなせないのは、当然こちらの都合(笑)

で、モノシリであることは”凄い”と思っていて、だけど私は私にそれを望んでいない、というこのオチもいつも通りなのだけど、自分が知らないといけない、嫌だ、という気持ちはまったくない…だから無知でもあるのだけど。


それよりも、昔からの自分のスタイルを振り返った時に気づいているのは、「何で、私が”ものを知らないのか”って、経験を優先にしているからだ」ということ。だもの、”知る”までに遅いし、それが判った上で尚、そのスタイルは変更しない。

変更どころか、私の中でこのスタイルは加速していて、若い頃は「知っていなくちゃいけない」という観念に縛られていたことも知っているため、そこから抜けている今の状態は”加速”に見えている。

人は自分の得意なやり方、アタマの使い方があるので、他者のそれを羨んでも仕方ない…というより、やってみてできるかもしれないし(得意)、だめかもしれないし(不得意)。結局自分でやってみた事しか”実感”は拾えない。


「その様にしてみれば良い」という事は、なんとなく解ったとして、その行いの過程で様々な”ワナ”、合っているのにやめてしまう(と判断する)とか、これはダメと思った(判断した)ことにより、やらないとか。自分自身の「判断」によって、その行いの選択をすることにハマる。

これが人の”迷い”の原因という事も判る。

結局、導くのもそれを邪魔するのも、いつもこの「自分自身」でしかない、ということ。だれもこの身体を持った”自分”を扱っているものなど他にはおらず、自らのその世界の中を回っている。


外の世界をこの目に見て(映して)、色んな事を判断することは「その他の情報も集めて精度を上げれば」、間違いは少なく”可能”かもしれない…。このことは、自分に対しても”同じこと”で、この自分の中に、”外からの”情報を取り込んでみて、”精査”してみるということで、間違いは少なくなる・近づいていく、ということ。

ここの”外からの”は、自分が動作(行動)したその出力のことで、現実に見る外の世界とは違う。この自分自身の外側へ出て行ったものを、自身で観てみるという事で、自分への循環を作る。


ただ、最近感じた。どこから学んでいこうと、それを徹底していく限りは、「同じ所に出る(だろう)」と。

私の頭の中のイメージではその様に双方からは繋がる、となっているのだけども、それはもしかしたら、その両方を(必ず)無意識に”行き来”しているからそういう事が言えるのかな、と。

アタマの中と実地と。

解かっていることは、経験を通して分かっていく。内側と外側、この”自分”を挟んでの内・外。これを貼り合わせ繋げていくのは自分自身しかいない。

・・・

途中まで書いていて夜に読み直し、少し思い出したことがある。

それこそ、個におけるリズムの話なのだけど、私は主人より早いリズムを持っていて、主人はそれよりゆっくりしている…そんな会話をしていた。そこから、「私は子供のころに祖母に、”あんたは癇癪持ちだねぇ…”と言われたことがある」という話を再び主人に話した。

『(子供のころ)何かそれをやろうとして、それが思い通りにできない(動かせない)とすごく腹が立ってムキーッてなって、それを言われたんだよね。例えば団子になっちゃった硬い結び目がすぐに解けない…とか』

そんな話をしながら、私の頭に浮かんできた。

『あー、私はこの身体が、自分の思い通りに動くと思ってるんだね(笑)今気づいたわ(^-^; 確かに、手を使って何かしようとした時に、それが思うような形で動かない手指に”んー!”って思った経験もある。動かせると思ってるんだ…』

自分の身体だもの動いてあたりまえ、その様に動かせてあたりまえと無意識に、当然のように思っていると初めて知った。


確かに動かせない事の方が、その経験の方が少なくて今までは”気づけなかった”のかもしれない。本当に動かそうとすると、身体はまったくこの意思の思うままに繊細に動かせたりしない、とても難しい。殆どがただ「機能」として”私”から離れて動いてくれている、というだけ。

共にありながら、ちっとも繋がっていない自らの状態を、少しずつ”知っていく”ためにも、”私”が無意識に出力している結果を、他人事のように見、だけどこの自分だと入力して「ここ」ですり合わせていくことで、やっと少しずつ「この存在」について知ることが出来ていくのだろうと思う。

この機能、ハタラキのことは、アタマの中だけでは全く見えてこないんだよね…。

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☆うみのみか☆
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