父との事
一昨日の朝、ちょこちょこっとずつ、他愛ない夢を見て記録していた。フツーの「夢」と言う感じの夢。
ウナギ屋さんにいるみたい。昼時で、数人の男性が受け取りに来てた。(お弁当?お重?)
〇に・。・が動いたから〇が活発になった。
売り場にはヘビのベルト?おもちゃ?がいくつもいくつも…。
子どもが自分の部屋で「これだけは後悔してる」と、自由に動き回るペット(?)に邪魔される事を悔やんでいる声が聞こえた。
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ちょっと、外郭だけ一先ず触れてみようかな。(とは言え、簡単に文字は増えてしまったので、今日は2本目ありません)
昨日はたまたま「精神科医の動画」に縁があったので対談などを視たりした。ドクターと縁のある人なんて、色んな意味で結構いるとは思うけども、私は別の意味で、「縁」があると思っている。
叔父の統合失調症、自分の小児てんかんなどの体験から、脳の事に興味がでたり、心の事を知ったり、必要な事を学んでいく・・・。当然、素人の興味の域を出ないものだけど。
早くに結婚した私は、実家と連絡を取りあう事も殆どなく、「みかちゃんはどこへ行ったんだろうね…」と父の再婚相手、継母が言っていたと、父から聞いて知った。「本心で言ってんだか…」と聞いた私は思ったけども。
私が高校途中まで暮らしたその場所で、離婚後に父は、祖母(母)の介護と叔父(弟)の世話をしたと聞いて、「そんな事できる人なんだ、凄い」と思っていた。
祖母が亡くなり叔父は自死してから「老人の独り暮らし」が始まっていたと知ったのも、つい数年前。何だかんだと「そっちへは行かない」とそこを離れようとしなかった父が、ひょんなきっかけでこの家で「同居」する事を決意した。
歳が行くと、家の処分など諸々がどんどん億劫になるから、一気に片付く形になってこれはラッキーだった…引っ越しに向けて連絡を入れたり、電話で話していると、所々会話がおかしい事にも気づいていた。「ちょっとボケてるかも」。
自分で頼った不動産屋との契約の内容でも、「ちょっとこれが分かんない」という割に、「私が電話するよ」というと拒絶した。私と父は仲が良かったから、「パパが言うなら。自分でやりたいのよね。」と間に入る事はなかった。
引っ越し当日。家に行ってみると、「持っていくものはこれだけ」と言ったそれ以外のものはそのまま状態。「ん?これで良いの??」と確認はするものの、「処分費用」も取られている事も確認していた為、「『良し』、という事なんだろう…」と、夜逃げみたいな引っ越しの手伝いをした(笑)
我が家に来てから始めの頃は、父の話をひたすら聞いていた。早くに家を出た私が知らない事も多く、ふむふむと聞いていた。みんなが周りから離れて行ってしまい、長い事独りで寂しかったんだろうと、私のできる事を懸命にやっていた。(離れて行ったのは父に原因があったと後に分かるのだけども)
都心部からこの田舎に越してきて、友達もいなくて、お店も徒歩圏にはなくて。話で聞いていても、実際にその生活を目の当たりにして暇だったんだろうと思う。戸建て住宅の集まる団地内を散歩するのが日課になった。
たったの数日でも、話している事、やる事に疑問が出始めた。「会話が成立していない…」。
私にもワン達との生活が元々あって、それを基本に、父の今までの生活スタイルを聞いた上で、食事の用意などの予定を組んだものの、約束が守れない。私にすると「勝手な事」をされてしまって、迷惑にしかならなかった。
以前から、足腰は鍛えていると言っていて、身体的にはしっかりしているから、アチコチ動かれてしまうことに困ってしまった。
ちょっとこれは相談しようと、保健師さんとアポを取り、面談し、病院の予約もしていた。認定への動きだった。
保健師さんと印象について話すと、「『認知症』と言う感じとは少し違う感じもします。」と、私は知識で知っている程度の認知症症状から、父は「精神病」の方ではないか?と言う目で見ていたから、納得していた。
「認知症はどちらかと言うと内に入る気の感じです。○○さんは外の感じがします…」とやはり、微妙な事を口にした。
とにかく予約待ち状態。検査の日まで、何をどう素人が考えても仕方ない訳で。その間に、どんどん私が抑えられなくなりガチンコ状態だった。その数日後。
その日は喜んで引き受けていた草取りをしてくれる日なのに、玄関から出て行く音に、「どこ行くの?」と聞くと「ちょっと床屋さんに、コレ」と昔書いた自分の本を届けに行くようだった。父の自由だから、別に咎める事もなく。
食べる事を楽しみにしている父なのに昼に帰ってこない、床屋に電話するも居座っている様子もない。。。夕方にも戻ってこず、もう一度床屋へ。
「ちゃんと言って行けって言ったんだけどなあ、、、」とさっきは言わなかったことを口にした。
「お金は持ってるから、バス乗って行ったんだね」と主人と慌てる事もなく、明日にでも帰ってくるでしょ、と言う感じだった。
一応保健師さんに一報を、と思い連絡すると訪問してくれて、交番の方からすぐに警察へ話が上がり、そこからアレヨアレヨの「捜索願」を出す事になってしまった。人生初の「家宅捜索」まで経験させてもらった。
もう既に、二度と顔も見たくないという私の姿勢だったので、約5日後に警察から夜中にかかってきた電話でも、ほんのひと悶着。「もうこれ以上、アイツに振り回されたくない」と言う気持ちが全てだった。
翌日、心配されてしまうのが予想できたので、保健師さんには言わず様子を見ようと思った所、警察から連絡が行ったらしく保健師さんが来訪。一時的に受け入れ可能な施設を探してくれて、夜勤明けで帰る警官が、父を施設に直接送ってくれることになった。
「申し訳ない。でも私は二度と顔を合わせたくない。本当にすみません」保健師さんに、正直にこちらの姿勢を伝えた。
父方の祖父母に育てられ、気づけば父は蒸発していなくなっていた。小4から部活に忙しかった私は、そこに深い悲しみを持ったことはなかった。元々すれ違いの生活スタイルになっていたから。
「あの時も蒸発した。好き勝手な事ばかりしやがって。」そんな事も思い出された。大好きだった父だったけど、一緒にいたたった2か月の同居で私の考えは変わった。そして、絶対守りたいものは「私の家族」だった。
何とかうまくやって欲しいという主人に対し、「この家庭を壊してまで面倒を看るつもりはない」と突っぱねた。【この家庭を壊したくない】、これは2年前にどん底を見た時にも同じ感情になった事を憶えている。「壊されてたまるか」強い思いだった。
暫くは父の本入所の為の手続き、施設選びなどで保健師さんなどとやり取りが続いた。そして介護方面でなく福祉からの手続きで入所が決まってお世話になっている。
「娘が迎えに来たって帰らないんだから。」保健師さんに言っていた父。
「子どもと同じですね。気を引きたいと。」
「そうです、そうです。」と保健師さん。
保健師さんに、この同居に至った経緯など全て話ていて、「私には面倒を見なくちゃいけないという意志はない。振り回されたくない。」と再三伝えた。ただ申し訳ないという気持ちもあり、それも正直に話すと、
「私たちはそういうご家族の方たちをサポートする為にいます。」と言ってくれた事が、とてもとても有難い言葉で身に染みている。
暫くは父関係の片付けで忙しく、家の中も片づけ終わると、段々普段の自分に戻れた。
自分がかなり父の為にしてあげたい、と思って頑張ってしまった事、「あなたの大切なものは何だ」とテストされた事。そして、途中で気づいていた、
「私と一緒にいるから、父は自分が『こんなに出来ない』を感じている。今まで独りで生活していたのに、同年代なら、問題なく過ごせるのに…」と。
施設に入って、父はよく話し、仲のいい人も出来たと聞いている。きっとかつての自分の凄さを自慢して楽しんでいるのだと思う(笑)
同年代の世界なら、生活は困難にならないレベルの「軽度の認知症」もある。父が寝たきりだったら私は上手くやれたのか、それも私は自信がない。病院で看護師や補助スタッフの姿勢を見てきたから、「私にはできない」と早々に認めている。
頑張る姿は美しい。人の為に頑張る事が必要な時もある。でも、自分の人生を生きられるのは自分だけなんだ、という事は忘れないで欲しいと、早々に諦めた私から強く言いたい。
施設に入所後検査の結果、脳の萎縮が確認されて「認知症」と診断がついた。専門の医師の前の簡易検査では、計算問題など全て基準はクリアして、「正常」と言う話だった。
日々同じコンディションではなく、一見躁うつ病のようにも見えたし、不安神経症の様子もあり、どれも症状的には似ていて素人判断は無理だった。「少し変かな?」と思えるのは本人でなく周りなので、注意したい所。
通常、本人は自分が認知症などと認めず、検査を受けさせることも難しい事も多い。まず、第一関門はそこ、と保健師さんは言っていた。そして、その2か月の間に私でなく、周囲の人たちが本当に動いてくれて、アドバイスをくれて、有難さを感じた。
たった、2か月の嵐のような出来事に、「何だったの(。´・ω・)?」と言うくらいの日常へ戻っている我が家。
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これは、「私がボタンを押して走っている最中の出来事」だったのです。とにかく【自分のできる事はやった。それだけで「成功」しなければいけない訳じゃない】という事が分かると思います。
それでも私は、気がかりを片付ける事もでき、自分の守りたいものを確認し、幸せな生活にしっかり着地しています。父も施設内で楽しく過ごしている、こういう形も選択肢としてある、と言う話です。
ざっくりでも長くなってしまいました。濃い月日だったので(*^^*)
目を通してくれてありがとうございました。