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言葉から離れたイメージ

世の中に。
たくさんの情報が「これでもか」と出回ることのメリット・デメリットは勿論あって。

どちらにも共通して必要になってくるものというのは、「自分の目で確かめること」なんだと思っている。

だけどそれは、簡単なことばかりでなく、内容によっては自分では難しくて判断のつかない事も当然たくさんある訳で、だから誰か・何か、確からしそうなもの・ことを信じてしまえばよい(簡単)という事になるのだけども。

そんな事でしか何かを採用できないこと、というのはあると思うけども。

その時は必ず、

「その選択は、自分が行ったこと」

という事だけは、しっかりと意識したいと思っている…以前音声でも話したけども。

そうやって、外の何かに自分を絡ませて、うまくいったり・間違ったりをしながらそれらのデータが自分に蓄えられるので、少しずつ「自分で判断ができるようになる」という流れがある。

そういう事から積み上げられたものを、「自信」と言うのだろうと思う。


自分を観ることは必要なんだけど、自分ばかり見ていてもその知りたい自分は見えてこないもので。だから外の世界=他者を見るのだよね。

で、どうしてその、この目で見て明らかに別の存在を”自分”という解釈に繋がっていくかどうかというのは、この「自分を通して見て(観て)いるから」という事は間違いないのだけども。


⦅イメージの世界です⦆

少し脳内の映像を替えるとそれは、例えば他者の何か行いを見たとして、それに何らかの反応が自分の中に現れたとして。そこに感じるのは、「そのモノゴトに現に今、接しているこの自分は密着している状態」という風に感じる。

もちろん、物理的に接触している訳ではないのだけども、今何かと空間で接触している時、ふと隣接(密着)部分を観てみれば、それは間違いなく”自分の側”もそこにある、という事が視える(感じる)から。

だからその密着部分は、「同じ」ではなくて、”対称”という事になる訳で、それが即ち”他者は鏡”と言う表現に繋がるように感じたことから。これは心理的な話の相手に投影・投射するということの考え方も無視した、イメージの話。

伊能さんがこの国の計測を、プシュプシュっと少しずつ外形を定めていった事が、頭の中で重なっています(笑)、そうしてカタチがおぼろげにでも分かる、そんなイメージでした(*^^*)

カタチが分かるには時間がかかっただろうな…、なんて風にも思った。

まずこれが、昨日の記事前半の補足です。

・・・ ・・・ ・・・

以下は同じく、昨日の記事内の”9/22メモ内容”を少し広げます。


【”自ら”が自らの力(存在)のままで感じること、を主としそれによって―――】

とあるのだけども、「”自らの力(存在)”を感じること」これ自体が、自分の力だけではそうはならない、という話を。

自分に自信が持てるその状態、になるまでには、必ず誰かの存在それによって認められる=肯定があったはずだと思っている。分かりやすいのはやはり、母・子の関係。

私たちは必ず、何らかの形で自分が自信を持つことへ繋げてもらって、その前提の上に立つようになったのだと思っている。だけど”前提”というのは常に足元のものであって、どんどん自分の経験が積まれて行けば、足元の喜びのことなどは忘れ、当たり前の事として姿を消し、即座に”コト”に入って行くようになる。


何かができるようになる事の行動・動作は当人という事はいつも変わらないのだけども、「そのコトを進んでもいい」と自分に許可を出せるようになったのも、実はどこかで自分がそれを”肯定されている”と、分かっているからなのだと思っている。(その元が過去に”許されてきた”こと)

だからそういう意味で”仲間”という存在は大切になり、そしてそれは決して、数でも影響力でもなくて、「自分がそうしたい・そうしてみたい」ということを、ただ行うことを肯定した存在がいたからという風に考えている。

それは、自分がそのことを経験したのであれば、理解は簡単なことと思う。


子供の頃の母の存在は、世の中のポジションなどと一切関係していなくて、それでもその存在によって自分の気持ちを真っ直ぐに出せたのだとしたら。もっと言えば、”肯定”でなくとも、止められなければ行うことが可能という事なので。

それがいつしか自らの様々な経験によって、自らに散々な規制をかけていく私たちは、できれば極力、周囲からの力によって更に規制をかけることをしたくない。

子供の頃に何かの存在によって、自信を持てて進めたのだから、今だって勿論そうであっていい。

ただ、子供と大人と大きく違う所は。

その行いの結果は、必ず自分自身で受け取る(受け止める)ということ。それが自己における責任という事であって、これは厳しい考え方であると同時に、そこには「そうする事の出来る自分がある」という”力”が隠れている事を思い出しても良いのかもしれない、そう思った。


責任、責任という堅苦しい考え方だけでなく、それをするには、”力”だって必要なんだから、それをできる「引き受けることが出来る自分なんだ」というそれこそ”自信”に繫げて良いのだと思う。

こうして見ると、自分の中に回り出す”循環”が見えてくると同時に、その隙間を埋めるように、他者という存在がちょくちょく挟まって来るのが観えると思う。

自分の中に挟まる他者か、社会の中に入っている自分なのか。

どちらにしてもそれは”表現”で、自他はしっかり絡み合っているのだと思っている。

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☆うみのみか☆
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