8:00のPART2
取り留めなく、ノートのままに参ります。
①
あんな風に水面下では”思っている(捉えている)”ならば、人というものは【否定】など何一つできない、と思った。
この”人”は、顕在の自分の事。全てである自分という存在は、「自分の意識していないモノ全て」なのだから。
増々この自分(顕在の私)に、拘る意味などない、と思えた朝だった。
(昨日の記事、「えっ?恥ずかしい…」という意識を受けて)
②
「飽きる」というのは、私は悪い事と思っていない。
言葉の意味がネガティヴなだけで、それを現わす状態を観ると、「もう、お腹いっぱい」という満足が背景にある。もっと噛み砕いて「ソレは満たされました」と言っている。
たった3文字の言葉のウラにはこんな状態が隠れていると私は思っている。
深く入る事ない”飽きる”もあり、文字通りその表しは浅い。同じ言葉を使っていても解釈が異なるのは、その受け取り側の入れる「深さ」が関係するから。
「意識への入れ方」、深い所へ届かせる有効なタイミングというのはあるけども、普段の日常に於いても不可能な訳ではなく、その目の前の”単純”から、どれだけ心の中で[疑問を持ち、想像・想定し、こういう事かな…]などの周辺を浮遊させたか、だと思っている。
答えなんて出なくていい。
それで落とし込めているモノが、ソレだから。
③
ナゼ、言う事が変わるかと言ったら、自分が、視点が変わってしまうから。
自分の意識(体)のある場所が動くからと思っている。高さが変わるだけで”浮いた”話になるし、”現実的”な話にもなる。
どちらがじゃなく、どちらも”私”である。
そしてそれを、「アタマの中を右・左と動き回っている」と、現わしても良いと思っている。
④
自分の思うよな事(結果)が起きなかったら、
「あ~あ、今日も誰かの願いを叶えちゃった~!」
と、言ってポチポチっと♡
”私”視点のままで、思考をクルクルっと変えるのもいいけど、これも嬉しいよね。
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ちょっと割食うような”犠牲”という捉え方もあるけども、それは”自分”というモノの一部であると思うから。
ならば、余力ならどうだろう。
自分からはみ出た部分を「自分」と言う?
余力を分け与えるなら、犠牲じゃないし、自分以外の所だもの、「共有部分」だよね。
⑤
上がったから”下がった”が見えてしまい、下に基準を置いておくと、上が新鮮で眩しくて嬉しい。
”反対技”を身に付けることでしか、このバランスは取れない。
同じ(その中)じゃ、その中にいる事が分かり辛い。その”ゾーン”にいるから。そのゾーンから外れて、そのゾーンを観ると「あそっか、そこにいたんだ」と気づく。
快適空間に入って喜びを得る方法も楽しいけれど、楽しいと感じるのはその入り口近辺。同じ状況はあっという間に慣れる。
目に映った現実という現象を前にした時、クルっと反転できると常に感じる事は可能という事になる。
”安定高止まり”を求めると不安定になり、結果、その状態を作るのは自分の在り方(心の状態)を、都度調整する事で、状態は高止まる、安定。
「心なんてない」という超天才の考え方もあるけども、心というモノを存在させてもいいじゃないか、その「操作方法」を知っていれば(*^^*)
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昨日はかなり強く、重ねて言葉が入った。
【方向(性)】
ハッキリ言って、自分の状態が掴めていなかったけれど、この言葉のお蔭で「意識の引き合い」を自覚した。
そしてこれもまた、いとも簡単に解消したのは「自己催眠」だった。
私は催眠を習った事も、意識した事もない。それでもここ最近経験しているのは、ただ流れる、私にとって安心な言葉を心地よく浴びているだけ。その言葉は自然と用意されている。
昨日も調べるともなく、記事を読んだ後に眠りに入ってしまっていた…。
明日は、この関連を書いていきます。