今日の”ひと言”ってか。
ひと言でいうと…
”難しい”と思うわね(*^^*)
もしも、「教える」という事が念頭にあるならば、ね。
「その頭の使い方」に状態をすぐに置けるから書くと、ザっと見て「上記の”印象”」しかない。
とてもまとまっている「頭の良い人」の作り方。
ザっと見た時の頭の使い方を、少し言語化すると…、
・文字を読むこと
・資料(画像・データ)を把握すること
・強調される数字(太字・拡大されたもの)
など、処理がバラバラのものを脳内で「一つのもの」=解釈、に繫げて考える事は”難しい”ことと思う。それを難なく普通に簡単に出来るのが「頭の良い人」だから(笑)
それを、ザっと見た時の印象として書いてみた。
「分ける」という事は「高度なこと(機能)」としている様に、更にはその分けて考えられたものを解釈する為には再び「全てを繋げなければ」ならなくて。
それらを、「脳自体が」嫌っているかもしれない。「一緒くた」になっている塊のままに”わかる”に繋がるのが楽。
本当は、読めばしっかり把握できる人も恐らくはいて。だけど初めの印象から拒否…「めんどくさい」。脳はいつもと違う労力のかかりそうなことに抵抗する「怠け」があるから(笑)
もちろん、純粋に解釈が難しいという事もあるにせよ、今この現代において確実に言えるのは。
「何でもインスタントに”答え”と思われるそれが手に入るようになっている為、そうでないものには寄り付かない。もっと安直な、即分かる様なものへどんどん流れている」(→そういう傾向を持つ人は)
もの凄い時代になっているよね(笑)
読める人はどんどん読み吸収し、そうでないものは、自分の理解・把握できる範囲で掴めるものを掴む…だからそのサイクルから抜けられない。
これは”発信”の欠点にもなるよね。
講座などで教える、などであれば対処が可能だけども、そういう所にも手を出さない等、こういうのを断ち切るのは大変だね…。
(私自身も、昔はそういう頭の使い方しかできなかった部分もあるから、この頭の状態を言葉に出来る(笑)正解でなくても、ニアリーじゃないかと思う)
えっ?
全然ひと言じゃない?
パッと頭に見えたものを説明するのに「これだけかかる」という、これでもコンパクトにしてある(笑)
・・・、どうしてこの人とこんな話ができるんだろう?・・・
とても不思議だった。
「逆に、近いんじゃない?」
家族とは、近くなってしまう間柄。
どの様な現象が現れていようとも、そういう距離なんだろうと思う。
・・・
”家族”のことなんて、家族ミーティングの議題になったりしない。少なくとも我が家では。
だけど。
他の議題の諸々を様々に話しながら、それ自体が実は「家族」なんだな…と思った。
「自分を見て欲しい」
昔はそういう考えだったものが、現在はその様なものを感じると今度は「窮屈」を感じる。家族の在り方に正解などないし、それぞれが今過ごしているそれが、”家族のスタイル”になっている訳だから。
『年が上がると、好きを抜いた”人間関係”で付き合ってく、そういう事なんだろうね』
2人それぞれに自分の事に集中して”役割”として日々を過ごす中。このひと月の中には、言葉を強くぶつけたこともあった。その時、私はそう思った。
若い時というのは”好き”という思いで満たされ、好きの扉から見えるものの中で共に歩む…、それが20年も一緒にいれば、そういう甘い思いに日々満たされた中で――ということはない。他の家族の話ではない、我が家の話。
そういう目覚めた、やっと魔法が解けた状態のフラットに物事が見えてくるようになった時、今までの対比で見えなかったものが強調されるように感じるかもしれない。
今までだってあった。
ただそれを上回るステキに染まっていられた。
だからこれの真意は。
ただ両方、全てがこの目に見えるようになった、それだけ。
それは、「(人を)嫌いになる」という事じゃないでしょう?だけどフラットに見えるっていうのは、始めはけっこう衝撃なんだよね。これに限らずなんでもそう。人は見たい所だけに自分を傾けて見るから。
やっと他の部分が”見えた”だけなのに、それを受け容れられないのは「自分側」であることは多く、だから言葉がぶつかり合ったりもする。
その主人との会話の中で私は、どちらかと言うと距離が分断しているようなイメージを持って伝えていたのだけども、主人は逆の感じ方だった、「近いんじゃない?」と。
それを想像・理解するのに時間はかからず、すぐに納得した。分からなくなかったから。
(なるほど…、その表現か…)
すごいと思った。だから冒頭の「こんな話ができる…」という思いに至っていた。
私が普段書いている様に、私は人に関心を持ち、それを観察など含めて様々を考えるので、あーだこーだと思案するのはある意味当たり前なんだけども、主人はそう言った事に”関心”の言葉を発した事はない。
どちらかと言えば、「人はめんどくせー」と嫌う傾向があり、これこそが私より深い所で「知っている(感じている)」という事だと感じる。
それを言葉で伝えてくる事がない主人なので、たったそのひと言が妙に深くて、「なるほどなぁ…」とこちらが感心してしまった、という話。
人に関心があって、人のことをこうして色々と書ける事があったとしても。それは、私が詳しいとは限らず、身体で”解っている”という様な、主人みたいな人は沢山いる。
それは身体という刻まれ方が深いだけあって、中々言語に上がって来ないとも言えて、私は時折主人のひと言に深く感心してしまう事がある。想定外の会話になったことが私は嬉しかった。
うん。
なんか、しみじみ…だね(*^^*)