すごいミラクルだな…
なんか…良かったんだろうなぁ、これで
昨日17:00〜18:00頃の約束になっていて、作業時間は2時間ほどかかると言われていたエコキュート修理。
夜が慌ただしくなると困るので、全ていつもより時間を前倒して動き、買い物も済ませて落ち着く態勢を取っていた、主人は早めのシャワーも済ませた。
もう一度連絡を寄越すという話だったけども入らない。完全に眠ってしまうとその頃に起きる事になると思い私は少しだけウトウト…。
18:00を前にしても連絡も入らず…過ぎた時点で「今日の修理は遠慮してもらおう」と決めた事によりスマホを手に少し読み物。後にボチボチ書き始めたnote。現在は19:20、流石に「作業が押していて…」なんて連絡ももう入らないだろうと気持ちを緩めた。
明日にでもこちらから連絡を入れてみる―――
「そんな時間で大丈夫?」の問いに、「大丈夫です!出来るだけ早くに来ます!」と言っていた、若くて元気な方だったけども…
!!!―――――!
ってスゲー!としか言いようがない…
ここで電話かかってきて…驚いた(笑)
(以下ちょっと予定を変更してnoteします)
「あの…作業の日程を…いつが宜しいですか…」
『ん?今日の17:00〜18:00っていう話だったでしょ?え、ほんとに憶えてない?』
手元の控えにメモしたそれを確かめながら伝えた。
「……はい、すみません」
憶えていない訳はなく、だからこうして連絡をしてきているわけで。
「明日のお昼ぐらいで宜しいでしょうか…」
『作業に時間がかかるって言ってるんだから、早めの時間に来てきちんと終わらせて下さい』
「はい、明日また連絡します…すみませんでした」
・・・
バタバタと日中に動いたのは主人も同じで、一段落後に横になり眠っていたのだけど、その応答に目が覚めたみたい。
『こんな時間からの作業はこっちが嫌だから遠慮してもらおうと思ってたから良いんだけどね(*^^*)』
「今日のこのバタバタは一体何だったんだ(笑)」
『今、土用中だしさ、今日は満月だし…うまく抜けた方が良いから本当にこれが良かったんだと思うよ(笑)私は“もう来ない”と思った時点で、息抜く時間をもらったと思ったもん…』
「あー、それはオレも思った。先に動いていたから、のんびりできる時間が多いって(笑)」
本当に本当に起きるコトっておもしろいと思うんですよね。そしてあそこでちゃんと電話が入ることも非常におもしろい…それを主人に話したら、
「“かかってくる”のを(人の方が)掴むんだよね、オレはそっちだと思ってる」と。
そうなんだと思う。
私はこの私の動作が必ず絡むし、それらが連続したものとして“繋ぐ”から、「私から見る」目線でコトを説明するのが主になるけども、繋がっていない主人から見ればその様な解釈になるのも自然、だから納得もする。
そしてあとは私の中に残る「人ってつくづく凄いイキモノだよなぁ」という感想。
世界で起こる事を通しての”自覚”なんて人は一部しか持てていない。だから何も判って(捉えて)いない状態で、ただタイミングだけがきちんと合うのだから、人は自覚を通さずに外のソレと引き合う。自身が何も判らないうちから自らの動きを始めている…と感じる。
私に多い“土用ミラクル”。今月は九紫火気の月…。
そんな作用も多分にあったのかなと思った。
追)
重ねてマジか!( ゚Д゚)と思ったのは、この事のあとに調べてみるとこの日の満月は「19:17頃」としているものが多く、本当に驚いた。
・・・ ・・・ ・・・
今回の土用期間。今月の九紫の特徴を踏まえて、”感情が暴発しないように”という事を少し頭に置いてあって。それだから起きてくる事に熱くならないことに、少なからず意識の置かれた状態があったと思う。
端からそれを足元に敷いているので、起きてくる事が何かスムーズでないと感じたとしても、あまりコトに執着せずに”気にしない”スタンスはあった。だから冒頭は「…良かったんだろうな…」と唐突に始めている。
そして主人と話していたのは、「こういう時」というのは、コトがそうある事によって、”彼”が動かされちゃったんだよね…ということ。だから最終的に彼には「ありがとね」という思いにさえ至る。
把握・自覚ができないのだから、「コトがそうある」ことの内容を説明することができない。ただあまりにもピタリとタイミングだけが合ってしまう。その神さえも「時」には敵わないと言われているそれによって起こるものならば、人なんて如何様にもコマとして動かされてしまうだろうと想像する。
そのコマが、何か、どこかの場面で人が誰かのシーンに登場してその”役割”をしている。そう考えた時、”その人”は何か自分の中での選択でその動作をしたのだとしても、「動かされてしまった」という所から観ているこちらとしては関係なく、「(遣われて)ありがとう」という思いになる。
ここまで書くと、つい最近感じたことが引き出されてくる。
「神」という存在を私は知らないし、真剣に考えようとも思わないけども、その存在を”どこか”に置いておくことで、「人のせいにしなくて済む」というもの。
何かイヤな、悪いことが起きたならば、神にその内容を引き取ってもらい神のせいにし、また何か良いことが起きた時にも、”神によって”という感謝の思いと、自分から離すことで自惚れずに済む、というようなもの。
いや…、私は、人がそれを行ったのであれば、きちんと「私がやった」と思って良いと思っているし、負のケースなら自ら引き取り片づける事で力をつけられるなど、どちらも人に収めて良いと考えている。
それでも、「なんで、どうして!」という様な、そういう事だって世の中にはあるもので。そんな時は、人に対して強い思いのエネルギーを、外に向ける行為より、よほど神のせいにした方がマシだというもの。もしかしたら、人と人同士がガチャガチャしない為の、静かな力の吸収がそこにあるのかなと。
神をバカにしているのではなく、神は人が思うような、人の考えに収まるような、そんな小さな存在じゃないだろうということ。もし人に”神”が分かるのだとしたら、それこそ人は図々しいと私は考えている。