他愛ないハナシ~
(メモ)
自分の発するモノが、居場所によって異なる、と書いてきた。その様に思って来た、当たり前に。
寝起きに無意識に上がってくるものは、その当たり前と全く違うものを投げ込んでくる。
”切れ目がない”というのは、顕在意識も潜在意識もずっと繋がっているイメージからその様に書いたのだけども、投げ込まれたモノはその解釈ではなかった。
『繋がってなんかないでしょ』『記憶で繋げたんでしょ?』
あ…そうか。
ハタラキは止まらなくても、把握する意識は年中無休じゃなかった。そんな当たり前の事もすっ飛ばして、記憶で繋げてしまうんだ、、とボヤ~んと思っていた。
こんな、初めて見知った印象のこれも、単に忘れていた記憶だろう。
↑↑↑これは過去の記憶、自分の意識を通した”自覚の持てるもの”だった(単に忘れてしまっていた)のだけど。
↓↓↓全く憶えのない「記憶の仕方」というモノもある…と思う。
先日、夕寝をしていた。その中で
〈山口 一○○〉
という名前が浮かんでいた。
起きてからも憶えていて、ただ、○○部分は何だか思い出せず、”山口 一(はじめ)”さん?知らないなぁ…出会う人?そんなバナナ(^-^; とスルーしていた。
翌日ふと、「脳と皮膚の事」の記事を探そうと検索していた。以前目にした記事を読みたかったのだけども見つけられず、これが良いかな?と思って読んだpdf資料の冒頭にお名前があった。
〈山口 創〉
”やまぐち”・・・、あれ?夢で見たのって山口だったよな、確か(。´・ω・)? そんな事を思い出す。
「創」って…なんて読む?大学名もあったので調べてみると、「YAMAGUCHI,Hajime」というのを目にした。その時はさすがに驚く。偶然?ホントに?と思いながら少し考えてみた。
この方の本などいくつかの記事を読んでみると、以前私が目を通したであろう記事の著者だろう、という事の予測が出来た。更に考えて、…なるほど、と。
自覚のある意識を通したものは「自分が憶えた、行った」などの印象が残っているのだけども、きっと私は以前記事を読んだ時、自覚はなくても「視覚内にはおさめていた」と思った。この目でしっかりと記憶しなくても「入ってしまう」という事は何度も経験しているから。
ただこのケース、ホントに覚えがないのでかなり不思議感が出てしまうのだけども、最近こういう目の使い方を少し意識に上げている。
いつかの朝、太陽が薄い雲に隠れていた。雲が覆っているとはいえ、しっかりと日差しがあって、その輪郭を見る事が出来なかった。
「おはよう…」
弱い光でも直視できず、少し目を逸らすと、「ん?気のせいかな?」目をつぶり直してもう一度同じように逸らして、視界に入るソレは太陽の輪郭が見えた。
「こういう事なんだ…」
上記の意識の話の内容とはちょっと違うのだけども、この「中心・的」となる通常はストレートに目につく所の見方の工夫と、「意図せずとも自分の中にはたくさんの情報が入ってしまっている」、という事の理解に繋がっている。
そしてこの”意図しないモノ”の方が、自分に与えている影響は大きいと、私は感じている。