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ツジとツマが合った

”動いてしまう心を動かさないようにすることも労力がいる”

その様なことを昨日のnote内で書いているのだけど。

昨日はふと、全然関係のない他者同士のやり取りが浮かんできた。内容の詳細までは分からない、ただやり合っているという様な。そしてそこから観えてくる―――

⦅そうかそうだ。”動くものを動かさないようにする”んじゃなくて、「仕組み」から捉えるだけで”動かさない状態”にはなってしまうんだよな…。観察状態でもまたそうなる。ソコにフォーカスするから”動く”んだから…⦆

動くものを動かないようにするのは労力がいるけども、そもそも違う状態、扉から入ってみればソコにフォーカスはなく違う所に焦点はある。そんな事を頭に浮かべていた。

三者が必要なんだよね。
両方を観るもの、その位置に居るもの(こと)で、「それぞれ」をみたうえで「それらの事から」、を生むことができる。

二者でなら「動かない”私”」がいて、それを俯瞰する位置の目線を持つ―――、これは同時にはムリと思うので、必ず”後に”という時間差で、それを見ることができる。

挟んだのは、書きそびれて、先日に「タイミングが…」と記していた時に頭に置いているメモ。昨朝湧いてきた上記に繋がると、書きながら自然とそのページを開いた。

表を走る話はいつも直接に関係していない事が分かると思うのだけど、その中でいつもこうして”自然と繋げられている”のが、”私”が強く自覚しない「機能的な出力の結果」と、見えやすいと思う。

この時点の時、私の意思は、「この事を強く自覚してやっていない」と書く、それは本当だから。だけど、それ以前に書いたように”頭に置かれた状態”が存在している。どこかの時点では「それを出したかった、繋げたかった」という確実な自覚上の意思が働いていて、それは私の中に残り続けている状態がある。

おっと忘れてた…、今日書く内容を決めていたんだった。続けて行く所だった(汗)


内と外というこの境、空間の違いが、ここでもまた強調された。例の「庇う」右脚、左脚の話

主人との面会の会話から、どうしてこの内容になって行ったのかは憶えていない。ほかにも色々話しているから。内外を感じたのは、リハビリの事に限らず、ずっと他も絡んだ話として感じ続けていた。だからこれは「現場」の一部のこと。

・・・

私は漠然と、全体で2センチ右脚が短い、と思っていた。頭の中は、大腿部ではなく、「立った姿の2センチ」とイメージがあった。それは理学療法士の方の靴底(中敷き)の話を加えて頭の中で繋げていると思う。

「・・・、内側をみてるからじゃないかな…。あれは偶然計測したんだよ。実習生がなんちゃらとかで長さ(大腿部)を計測することになった。”いつもはしないんですか?”って聞いたら、先生は”しない”って言ってたよ」

『あの時、一緒に走っっちゃってるから先生気づいてなかったでしょ?私、後ろから姿を見てたから、状態を観てるもん…』

私が先にそんな話をしたかもしれない。それによって主人は返答してきて、それを訊いた事によって、話の内容、理屈は”合う”ことになると思った。

『面談でも先生はそれを言ってないし、私は脚が短い事をランニングのあの時初めて聞いたよ』

そういう状態があるからビッコを引く、「痛みが残り続けている」。この理由が会話を重ね、その中に出てきた情報としては既に療法士の方の中にあったことがこちらに共有されて、ツジツマがやっと合っている。しかも直接でなく、そんな詳細の事など何とも思わない”主人”という間の人が、外の刺激(私)から何かを言われたことによって、「そういう事があった、そう言ってた」というものが伝わってきている。


あの時の会話をもう一度考え、表で繋げてみた。

私は「(痛い)右脚を庇う(ビッコ)」という事を言い、先生は「短い右脚を庇う(ビッコ)」というそれぞれの中身の捉え方が、表からでは理屈が合わなかったのだけど。主人から聞いた”情報”を足して考えると、先生は痛みという事を言葉に出していなくても「短い事による”筋肉の痛み”が起きているから”痛い”」という事を、省略して話されたのかもしれない、と捉え直す事ができる。

私は、「痛い」という事も実際には口には出していなかったし(庇うという事で通じると無意識に思っている)、先生は計測の結果を知っていて、長引く痛みの原因も”そうかもしれない”という事で把握していた。だけどやはりその情報は口にしていない為、表に出された「庇う」という言葉から解釈は広がり、また走る様子を実際に観ていた私にとっては、「それでは話が合わない」という様に感じたものだった。


確かに主人の言うように、”先生は内側を見てるから”は「本当」に近いかもしれない。骨や筋肉の術後経過に起こる可能性を、(数値的にも)知ったかもしれないから。外からでは観察できない、また言葉にもされなかったその事を、”先生の内側”ではしっかりと観た状態で、会話がされていた可能性があると思った。

大腿部で2センチ短くなる。足全体の”全体”のイメージから大腿部での2センチになると、余計にそれは負担の大きなことと想像がしやすくなる。これも考えれば当然のことだったのだけど、分からない”初めて”のことは、ただ漠然とイメージがあって、それが重ねられる言葉によってよりイメージはまた詳細になり、さらに言葉が付いていく、という様に感じた。

言葉にされない情報は、本当はとても多くあり、それは例えば私のように脳内の映像を挟み言語にせずに言葉が飛んでいる事も多くあると思う。(先生の脳内は映像があるかどうかは分からない)情報は多くあるけども、全てを言葉にしなくてもという事もあるかもしれないし、単に言わなかった、これが会話としては一番多いように感じている。

目の前に現れたその言葉だけが「すべての情報」と、せざるを得ない状況が確かにあると思っている。それをカバーするのがやり取り、会話を重ねる事というのは、これはもう、これしかないといつも痛感する事。

初めから全てが言葉になり表に出ていたらスムーズなやり取りになる、と言えるのだけど、それこそ全てを初めから詳細に言われても”分からない”ことが、”外の者”には多いから、内側のことをある程度搔い摘んで、省略したりもするわけで。会話の中には色んなことを理由にした落とし穴がたくさんあると思っている。


ただほとんどの場合、自分の基準が無意識で当然にあるものなので、それは意識的に行うことをしなければ、言葉になって外に出ることもない「単に省略されたもの」と思っている。

そもそも、「この言葉にはこれを含む(含まない)」など、人は無意識で当然のように使っていたりする。そう教わったのか、勝手にそう思っているのか…、殆どが後者で、日々言葉を使っていながら、その言葉の事などあまり分かっていないで使っていると、言葉に関して学べることは、いつも大変に深いところへ落ちてゆく。

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☆うみのみか☆
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