実家に帰り思うこと
こんばんは。
すっかり年の瀬です。
皆さん2021年でしたでしょうか。
さて1週間ほど田舎の実家に帰省している25歳港区サラリーマンが、毎回帰省して思うことを綴ろうと思います。
恵まれてる。
僕は幸せすぎるほど恵まれている。
何不自由なく育ててくれた両親には心から感謝しています。ただ一方で、
幸せに溺れる自分が怖い。
幸せが続くことが恐ろしい。
と思うのです。
"幸せが続くことが怖い"
これは15歳の頃からひそかーーーーに考えていました。きっかけは小学生の頃です。
(少しばかり昔話に付き合ってください笑)
※ここから先の話は捉え方により、自慢に聞こえるかもしれません。毛頭その様なことを書く意図はありません。
出来る限り配慮しますが気を悪くされましたらごめんなさい!
【事件です!】
①まる少年、過保護では?と気付く。
母は息子が1人しかいないので僕だけに親としての愛を注いでくれました。だからこそ、何に対しても全力に愛を持って接してくれましたが、友達の話を聞いてると他の親子と比べ、"親と子の距離"が近い様に感じていたのです。困ったら手を差し伸べてくれる母、僕にとって母は頼れる存在でしたが依存しているように感じたのです。
②常識が少しズレてる...?
僕の実家にはサウナがあり、玄関には季節ごとに花が活けられており、寝室にはよく分からない人の油絵があります。そして冷凍庫のアイスはハーゲンダッツしか入っていない。ピザはナイフとフォークで食べるもの。というのが常識でした。
※僕は15歳で家を出るまで、ハーゲンダッツが高級アイスだということも、ピザは手でも食べる事も知りませんでした。
生活面はこんな感じだし、習い事は真面目に行っていたしで、"あれ、僕は過保護過ぎる中で育っているのではないか" "温室育ち"と言われるのではないか?
そう思ったまる少年、12歳(中1春)の時グレました。(単純)
水泳をしていた影響で髪は金髪だったので、見た目はクリアですが、更にスプレーで色抜かすのを買って金髪にしてました。
あとは喧嘩を覚えるため、ヤンキー漫画の金字塔特攻の拓、高橋ヒロシ先生のクローズ、ワースト、品川庄司品川さんのドロップ、お笑いコンビバッドボーイズの佐田さんの自伝漫画デメキン、など不良漫画を読み漁り、取り敢えず何回か殴り合いの喧嘩をしました。
(戦歴なんか覚えてない。殴ったら痛いし殴られたら痛かったし、楽しかった事も今思い出すだけで嫌だったな、って喧嘩もありますが今となってはいい思い出。)
あとは、先生に反抗したり、塾が終わった深夜の24-5時位から友達や先輩と遊びに行った後昼登校したり、(肺が弱い癖に)タバコ吸ったりと、イジメと万引き以外の不良行為は一通りしてました。
しかし喧嘩しようと先生に反抗しようとタバコをふかそうと、所詮根っこは真面目の作り上げた不良です。
不良を演じる事で、
俺は温室育ちじゃねぇんだよ!!!!
キレたら怖ぇんだからなぁ!!??
と周りにアピールしてる筈なのに、抜けない"坊ちゃん感"...。笑
未成年の禁止のタバコも吸った。
深夜にバイクや車に乗って遊び回った。
小栗旬主演のクローズに憧れて近くの中学に殴り込みにいって喧嘩もした。(その後仲良くなる。)
それでも満たされない心。
何のために不良をしてたか分からなくなったまる少年は中2の冬頃から次第に不良からフェードアウトし、中3時には何と生徒会に入るほど真面目な生活に戻ります。
見た目は変わらず金髪だったし、不良とも真面目くんとも仲良くして平和な時間を過ごしていたまる少年にも進路決定の時期がやってきました。
そしてこの進路相談が人生の転機となるのです。
まる少年は中1の頃から、偏差値70程の公立高校に合格するため勉強は頑張っていました。"不良と遊んだり怪盗ロワイヤルをするのは塾の後"程の徹底ぶりにナリヤン時代も塾だけは1日も休まず行っていました。(ナリヤン=なりきりヤンキー)
その甲斐あり4月と7月の進路相談でも「問題ないでしょう。」と担任の判断で受験する気満々でした。
しかし夏の大会が終わった8月下旬、五輪メダリストも排出した名門校から特待制度での入学の声がかかるのです。
(実は他にも県外で水泳の強い高校や、何故か水球の高校など、3〜4校位から特待の話が来ていましたが全て断っていました。)
まる少年、当然高校の名は知っていたし寧ろ憧れていました。その高校には僕のスイミングからも過去に数名先輩たちが進学していたので、休みの日は試合に応援など行っていました。しかしその先輩達の中学時代は県大会3位に入る実力者達ばかり。僕は地区で名前は上がるけど県大会では戦えないよね、程度の選手だったので、まさに青天の霹靂。
その高校の特待条件は「県大会最低8位以内、地方・全国大会出場者」
まる少年は人違いかと思いました。
夢にまで見た高校からの誘いでしたが、一度断ります。
「僕より速い人は沢山いるし、公立高校を目指しているので、大変光栄なお話しですがお断りします。すみません。」
あぁ思い残す事はない。
そう心の中で思うまる少年でしたが、監督の話は続きます。
「君の成績はうちの高校の特待条件は満たしていない。しかし私は、君の先生から推されてここに来たんだ。最初に君のスクールの先輩から、"試合を見て欲しい"と言われ夏のレースを見た。その後に君を13年指導したT先生から君の話があったんだ。」
まる少年、2歳から15歳までの13年間T先生の経営するスイミングに通っていましたが、リーマンショックの影響もあり、スイミングは試合の落ち着くの9月で終わることが決まっていたのです。
僕は20数年続いたスイミングの"最後の世代"として名を残そうと奮泳しましたが、力及ばず、大会でも新記録などを作るなど大した成績は残せませんでした。T先生に対してそこに申し訳無さもあったのです。
監督の話に戻ります。
「T先生から"私が指導した最後の子だ。大して速くはないが粘り強さ、負けず嫌いさなら過去の選手達にも劣らない。多少要領は悪いが面倒見てくれんか"と話されたんだ。実際に君はこれからの選手だと思う。全国へ行くことがT先生への1番の恩返しになると思う。君さえ良ければ、1番下の特待制度で迎えるつもりだがどうする?」
僕は監督の口から出たT先生の言葉に震えました。
凄く凄く嬉しい。
いつも怒られていたT先生にそんな風に言って頂いていたなんて。
でもこれは先生のコネなんだ。
僕の実力じゃない。
僕はまた甘えるのか、親に甘えたくないと思っていたのに、今度は先生に甘えるのか、僕はどこまで甘やかされて育ってるんだ。
そんな葛藤もあり、この場で答えは出さず持ち帰る事にしました。
そしてここから約2ヶ月親と自分との冷戦が始まります。
自分としては先生に頼る形で嫌だな、と思っていましたが、"今しかできないこと" "先生に喜んで貰える"そしてもう一つの理由(今はまだ内緒🤫)から考え、"水泳で高校へ行く"事を決めました。
しかしながら親は反対です。
「何のために公文や塾に通わせてきたのか、しっかり勉強で高校へ行きなさい。水泳なんて将来何にもならないじゃないか。」
親の気持ちも分かるので何も言い返せませんでしたが、1ヶ月後同じような事を言われたまる少年は遂にこんな啖呵を切りました。
「勉強はいつでもできるけど、水泳で全国に行ける、目指せるチャンスなんて人生で2度とない。僕は今しかできない水泳を取る。通わせてくれないなら僕はどこも受験しない!ニートになる!!!!」
なんてワガママな奴だ...。(25歳まる心の声)
その後も親との膠着状態は約1ヶ月続きましたが、話を切り出したのは母でした。
僕の人生の分岐点となる日です。
「勉強は絶対に手を抜かないこと。この約束を守ると誓うなら貴方の決断をしなさい。ただ弱音を吐いても知らないし聞きたくもないからね。それだけの決断だと知りなさい。」
母は教育ママでしたし常に怖い人で何より頑固でした。その母が譲歩したのです。
「ありがとう。絶対折れない。約束も守る。」
僕は泣きながら親に話し、遂に70の公立校ではなく高校特待での進学が決まりました。
翌日、高校の先生に特待を受け入れる事を電話で話し、スイミングの先生には直接お礼を伝えました。
「おう、決めたか。全国への道のりは険しいぞ。それでも行くと決めたならとことん頑張って結果出してこい。たまには試合観に行くからな。」
かくしてまる少年はこの後、スポーツ特待生として高校に入学。高校は地元からの通学が難しいため、地元を離れ高校の敷地内にある寮で生活することになりました。
15歳の温室育ちのまる少年、家を出る。
高校時代の生活が僕の人生に大きく影響した事は、言うまでもありません。高校時代のエピソードは盛沢山なので今回は割愛いたします。面白い話も今の時代なら笑えない話も、まる少年の青春日記はまた別途書こうかな。(需要ないだろ。)
話は戻りますが(強引)、僕は本当に恵まれ幸せだなと思うのです。
でもこの幸せが怖いなとも思うのです。
幸せが怖い理由に何歩でもいいから近づく
そんな一年にするために、2022年様々なことに挑戦していきたいです。
本日も拙い文章ですが、ご拝読頂きありがとうございました。
それでは皆さまよいお年を。
2021.12.31
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