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華氏451
最近、SNSを流れる忖度、パターン化されたタイムラインを見ていると、活字の存在しない未来の管理社会を描いたレイ・ブラッドベリの小説の映画化「華氏451」を思い出すのは私だけだろうか話。
SNSは多くの人に一定の安心を与える洗脳装置として有効に機能していて。与えられた「キャラ設定」を機会的にこなす人を大量生産しているように思える。
ただそれが一概に『悪い』とは思えない。
「誰もが一緒」だと思える「洗脳」はストレス発散の選択肢がない人にとっては考えるめんどくさい行為を省く快適さを指先一つでもたらし、定期的に誰かを生贄にして、みんなでよってたかって安全なところから攻撃して溜飲を下げることは、正直、快楽だろうなとわかるから。
また複数のアカウント、アバター「キャラ設定」を使い分けることも。それが辛い現実からの逃げ場所、個人の生存欲求を満たすセーフティネットとして有効機能しているのなら。例え、それが【与えられた役割】でも。少なくとも逃げ場所すらなくなり、途方に暮れて橋の下に集まったり、犯罪に巻き込まれるよりは、よほどましだと思うからだ。
ただそれが『良い』とも私はやはり思えない。
「華氏451」の映画を見た方ならわかると思うけれど。モニターを眺めて笑顔を浮かべる客人に主人公が感情をぶつける場面みたく、わけもわからず、わかりたくない感情で叫びたくなる。
そんな気持ちになる人。いませんかね?『枠の外、スマホやモニターの外』を眺めている人。