「こうあるべき」論はどこからやってくるのか
日本で2019年4月に施行された改正出入国管理法。増加する外国人労働者数。移民大国日本。これらは全て、今話題のテーマであり、メディアは「外国人」の犯罪や失踪ニュースをこぞって取り上げる。
この記事を読んで、外国人労働者についての歴史や現状を他の記事と同様学ぶことができるが、筆者が最後に言及していたことが、一番深堀したいテーマである。
つまり、「普通であることの期待」や「こうあるべき」論はなぜ、どのように社会で形成されるのか?と。
日本人は、「平均」「他の人と同じ」「ランキング」「平等」が好きだと思う。「30代の平均年収」や「オススメコスメランキング」、「平等に与えられた権利」。自由が欲しいと言いながら、他の人と同じく通勤ラッシュに電車に乗る。あたかも、それ以外の選択肢が無いかのように。
見た目「外国人」が、箸を使ってご飯を食べていると、「すごくお上手ですね」と褒める。その人が、日本で生まれ育ったかもしれないし、母国でも使っているかもしれないし、日本に何十年も住んでいるかもしれないのにも関わらず。
「日本では、いつまでたっても日本人にはとけ込めない」と言っていた人がいた。自分がまだ生まれていないときから日本に住んでいる人だった。いつまでも「外国人」だと。
「この人は、髪がブロンドで目の色が青色で‥」と無意識にも「自分とは異なる」と決め付け、「この人は外国人なのに箸の使い方が上手い」とか、「外国人なのに日本語が話せる」と、「こうあるべき」が前提にあって、「それなのに」と決めつける。
ただ、これは何も日本国内だけで起こっているものではなく、一つの国の一つの環境でしか生まれ育った経験がなく、異文化、異世代、異言語、どことも「ぶつかる」ことがないと、普通であることや同じことへの期待や「こうあるべき」論はどこにでも出てきてしまう。
日本は、この点ではまさに発展途上であり、学ばさせてもらわないといけない点が多々ある。日本人だけでは学べなかった、「こうあるべき」論の不要論を発信していかなければならない。そうして、こういうインバウンドや外国人労働者の話をするとき、日本国内側からの発信だけで物事を判断してはいけない。
「こうあるべき」論がつくられるのは、「世の中には、こういう世界もあるのか」「世界にはこんな自由な暮らしをしている人々もいるのか」「文化や生まれ育った環境が全く異なるのに、ここまで価値観があう人がいるのか」と度肝を抜かれる瞬間を経験したことがない、すごく小さな社会の中であって、語るだけではなく、自分が外に出ることを引き続き行っていかなければならない。