画集『人魚の見る夢』樋上公実子/妄想ドキュメント/
第一章
気がつくと少女が私を見上げていた。6月というのに連日35°越えの猛暑が続き、これから訪れる狂った夏の暑さはどれほどかと懸念される。浅草、ひさご通りのむっとしたまとわりつく空気の中で、少女の目は真剣そのもので、それでいて涼やかだった。私に用があるかとも思えなかったので時候の挨拶をなげてみた。「暑いわね。」少女は答えず、それでも私の行く手を遮っていた。「私は、小学校一年生です。決してあやしいものではありません。」少女の目に少しだけ請うような色が見えた。「どうしたの?」「お父さんがいないんです。」一瞬、どっちかの家出かと、複雑な感覚が胸を過った。どう聞きすすめたものか。「私はすぐそこの不動産屋の娘です。今日、学校へ行くときに、鍵を忘れたんです。お父さん家にいると自転車があるんですけど、帰ってきたら家の前にないんです。お父さん居ないんです。」…「困っているの?」少女はこくっと頷いた。何で私を選んだんだろう…何をして欲しいんだろう…もしかしたら——そうか。携帯を借りたいのね。「ごめんね、私、携帯をもっていないのよ」…。少女は信じられない…という顔をした。こちらが少しだけ申し訳ない気になった。少女は、この人ならどうにかしてくれるだろうと思っている。けっして側を離れようとはしない。見えない手がスカートの裾を掴んでいる。「じゃぁこうしましょう、私の家は近くだからそこで電話をね…しましょう。」少女は頷いた。そうして手をつなぐまでもなく、私の歩くままに脇をしっかりした足取りでついてくる。そうだ、家までの道に、行きつけの喫茶店がある。「ね、知り合いの喫茶店があるから、そこで電話をかりましょう。」少女は頭をふった。厭なようだ。「家がいいの?」こっくりと深く頷く。二人はまた歩き出した。そしてアトリエのある家についた。少女は明らかに戸惑っていた。友だちは仕舞た屋が多いのだ。「ここ。マンションなの。私そこに住んでいるの」ちょっと下を向いてそれでも少女は一緒にエレベーターに乗った。玄関を入ると…忘れていた…描きかけの絵がイーゼルに3枚、床に4枚拡がっていた。人魚の絵、上半身が裸体の…そして絶滅危惧種の動物たち。少女は息を呑んだ。片づけるのに充分時間はかかって、少女はその間、凍りついたように窓の外を見ていた。窓の外には高い塔が見える。もう十年以上になるだろうか。電話機を差し出してまた驚かれた。固定電話を見たことがないようだ。ダイヤルを見て困惑している。「お姉さんがかけるね」と、番号を聞いてダイヤルを回して「はいっ」と受話器を渡した。すぐに父親がでた。「お父さん駄目じゃない。すぐに戻ってきて、すぐに。鍵を忘れて入れないんだから。今、近くのお姉さんのところから電話しているの。」話もついたようなので、受話器を受け取った。「ありがとうございました。帰ります。」と挨拶をして、しかしそのまま硬直した顔で…たぶんそれは見てしまった絵のせいだと…思ったが…玄関に立ったままでいるので…家まで奥って欲しいということだと勝手に了解して、少女に見上げられたひさご通りまで、また一緒に帰って戻った。来るときより私とは二歩分多く距離があって…一言もしゃべらなかった。暑い6月。きっと少女の頭の中では、いま、人魚や絶滅危惧種の動物たちが飛び回っているに違いない。「こっち」と、不動屋さん屋の入り口まで連れてこられて…でも自転車はなく、父親はまだ戻っていいないようだった。「もう大丈夫です。父ももうすぐ戻ると思います。ありがとうございました。」と何度も必要以上に少女は深く丁寧に頭を下げた。繰り返しもう大丈夫と仕草で…父親と会って欲しくないという意図を伝えているのだなと理解した。絵のこと、家のこと父親に説明しづらいのだろう。慮って…作品の発表も迫っているので、あっさりと別れることにした。「じゃぁね」小さく手を振ると少女は黙ってまた頭を垂れた。
この感じでやっていけるのだろうかと、ふと心配してしまうほど、不動産屋は古びていて、ダイヤル式の電話機なら残っていそうなものなのに…そんなことを思いながら硝子戸に貼られた古びた不動産広告をじっと見つめていると、「ごめんごめん、公実子が鍵を忘れたのに気がつかなかったよ。さあ、入ろう。」と父親がもどってきた。「ほんとに気をつけてね。今夜の発表会のチラシをまだ町内にまき終わっていないんだから…」とんとんと軽快に梯のような階段を上がって、自分用の机に置いてある、今夜の舞台のチラシ[人魚姫・ハンス・クリスチャン・アンデルセン]もちろん手描きの…私のデビュー舞台を掴んで階段を駆け降りた。宣伝しなくっちゃ。私は小学校一年生。今夜私が人魚姫であったことをお披露目する。下駄を履いて駆け出した。ちんばなのに気がついたが、そんなことにかまっている暇はない。ひさご通りには夜になると人が一杯になる。人のよさそうな…本をたくさん読んでそうな人がいいな…。
ひさご通りを歩いていると背の高い少女が近づいてきて目の前で止まった。僕に用事ですか?声に出さず聞いてみると、「私はあやしいものではありません。切符をもらってくれませんか?私は小学校一年生で、公実子と言います。わけあって名字は言えません。でも怪しいものではありません。今日の夜、私が人魚になるお芝居をします。私の家の二階です。私の家は下谷万年町にあります。怪しいところではありません。大靏 義英とか米山 九日生とかいうちょっと変わった人が出入りしていますが、本当は立派な舞台をする人です。そう聞きました。こわくありません。どうぞ見に来てください。お金はいりません。アンデルセンの『人魚姫』をやります。同じキャッチフレーズが繰り返された。切符をもらって夜に下谷万年町の公実子さんの家を訪ねた。少しだけぎしぎし云う梯のような階段を登っていくと二階の奥に小さな舞台が設えてあって緞帳まで設えてあり…二階の窓は黒い紙で覆ってあり…暗転ができるようになっていた。…本格ですね…黒い紙の向こうはかつて十二階があった頃の薄暗い空気がいまも少しだけ残っている。そう大正時代なら十二階が見えるはず。黒い紙の奥に。少女は主役の人魚姫を演じ…台詞もはきはきして、衣装も本格…でも自分で塗ったと思えるできでで、それがまた何より創作性を感じる…ちゃんとスカートの先が鰭になっていて…それは国際劇場の人魚や、もしかしたら稲村劇場にいる人魚や…オペラの上演で登場した浅草六区の人魚たちとはまたまったく違う、妖精の、人魚、公実子だけの人魚のような気がする。この少女が人魚姫の舞台を卒業するのはいつのことだろうか。少女たちは14歳に妖精を忘れるという…でもこの少女は、人魚を演じ続けるような気がする。人魚姫を抱き続けて大人になる…きっと…私は大人だから自分が人魚姫でないということは知っています…そんなことを云いながら、自分が人魚姫であることを、隠さず堂々と仕事にまでしていくような気がする。私が人魚姫。私が演じる人魚姫の物語を見てください。そんことを云いながら暮らしているに違いない。