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『秘密の花園』唐組69回公演

ある冬の夜、都電荒川線・鬼子母神駅を降りると、しゃんしゃ、しゃんしゃんしゃんという手締めが風にのってひそやかに流れくる。ここ鬼子母神もお酉様、つい昨日、鷲神社お酉様の小さな熊手をもらったばかり。またゼロからやり直し…。そんな自分の都合はおいて、鬼子母神・鎮守の森は、ざわざわと少し昏い風音を立てて変わらず闇のあることを告げている。久しぶりだなこの騒めく感じ。鎮守の森は、小さくても森の佇まいを凝縮している。風がテントへの道…客を誘う…。『秘密の花園』唐組が、今日の演目。唐組は10月末、明大裏の猿楽町を皮切りに、金沢を廻って、雑司が谷・鬼子母神に戻る三ヶ所公演。『秘密の花園』は鏡花の『龍潭譚』を下敷きにした唐十郎の戯曲。久保井研が演出を担当する。明大裏の公演評を、公明新聞に書いた。700字なのでかなりコンパクトに書いている。だいぶ言葉を刈り込んだ。すこしだけ言葉を回復させると…

公明新聞。
このところの唐組・久保井研の演出は、戯曲に深く入り読み込んで、それを役者同士の明確な対話をもって上演する。つまり台詞によって戯曲世界を描き出すことに主眼をおいている。ところが、今回の『秘密の花園』…のっけから少し印象が違った。藤井由紀も稲荷卓央も全原徳和も…そして他の役者たちもオーラを全開させてパッションを出している。演出もけれん味があって…特に本水が戯曲を越えたリアリティをもって容赦なく存在する。一瞬、唐十郎演出の復活?なのかと思った…。しかしそうではなかった。
『秘密の花園』は、泉鏡花の『龍潭譚』が下敷きになっている。鏡花は、ある時期から水にまつわる物語を多く書くようになった。それは、明治・三陸沖津波が起きたことと無関係ではない。そういう研究も幾つか目にする。明治三陸地震は、マグニチュード8.5、津波の高さ38メートルの規模で、津波の高さは東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の40メートルが起きるまでは、最大の津波だった。地震の被害規模でいくと、関東大震災、明治三陸沖津波、東日本大震災の順になるらしい。明治三陸沖地震はかなり大きい規模だったのだ。『龍潭譚』は実際に起きた洪水の口伝を使って書かれている。…水にまつわる姉への憧憬というのが大ざっぱな鏡花の物語のテーマになる。(もちろんそんなに簡単な構造ではないが)
唐十郎の『秘密の花園』も『龍潭譚』を踏襲して水が一つのテーマになっている。姉(もろは)と戀人(いちよ)を重ねるところ、姉の乳房をまさぐるシーン…これも鏡花からの変成だ。特に水は…唐の『秘密の花園』の地下水脈、根底を流れるイメージだ。…舞台の家の外にぶちまけられ続ける、ざばーざばーっという水は、確かにいつもの唐組の外連味ある演出のようにも思えるが…どこかに現実味があって…ふと線状降水帯が局地的な大雨をもたらす、その時の雨のように感じた。水は、ぶちまけられる水は…唐十郎の『秘密の花園』から鏡花の『龍潭譚』へ通じ果ては、明治・三陸沖津波にまで連なっているような気がした。そしてそのつながりに付帯する、その時どきの——日本のあちこちの——水の氾濫を物語に巻き込んで今ここに成立しているような気がした。ここ10年ほど連続して起きている津波や、洪水や、異常気象の大雨、バケツをひっくり返したような強い雨…それが舞台の本水となって…線状降水帯の嵐のように横殴りに役者たちをとらえていた。それに立ち向かっている役者たちの肉体のパフォーマンスは、どこかで見る人に勇気を与えている。
久保井研は時代と、地域と、物語を混淆させて演劇の幻想を引き起こそうとしているかのように見える。状況劇場の全盛期と比較すれば、おそらく規模も動員もコンパクトになっているだろう。だからこそ外連の演出もコンパクトに、しかしながら、だからこそ、巡業する各地の土地に、人の心に深くささるような差し込みができる。テントを跳ねた向こうにはそこに居る人と土と空があるのだ。もちろん海があることもビルが聳えていることもあるだろう。それは時々に微妙に調整すれば、すっと刀は差し込めるだろう。鋭さは切り裂くものではなく入り口を開く外連だ。今の唐組なら、久保井研なら可能なことだろう。(公明新聞)

明大前の公演を見た帰り道、樋口良澄と並んで歩いて、そうそう樋口良澄は、『唐十郎論―逆襲する言葉と肉体』の著者であり、明大時代の唐十郎の仕事を発掘したりの評論家、編集者であるが、ずっと状況劇場、唐組に寄り添ってきた…ボクが「今回、演出はパワフルで良いけど…そしてニュータイプなので未来と可能性を感じるけれど…ちょっと台詞がとっちらかっていないだろうかと?聞こえないところもあるし、相手役者にきちっとわたしていないところもある…」と問うと、樋口は「確かにね…でも金沢を廻って戻ってくるうち、そこもきっちりとできてると思うよ。まちがいなく…(間)…じゃあ鬼子母神公演いっしょに見に行こう、予約しておくね…」そう言われて今夜、樋口良澄と鬼子母神のテントに入った。いつものように樋口はかぶりつき、ボクは後ろの椅子席に陣取る。はじまって…すぐにああ、良いなぁ…声が通っている。樋口のいう通り、台詞がきちんとこっちにも(客)にも対話する相手の役者にも、とどいている。台詞のやりとりで芝居の熱があがっていく。観客はしんとして聞いている。(珍しいな観客が静かだ…)良い声の響きが雑司が谷の森に守られてテントの中にすっと拡がっていく。久保井研、得意の戯曲による演出(これがそんなに良くできない。特に唐十郎の戯曲はむずかしい…)台本を読み込み、それを役者にむけてのきちっとした台詞廻しとして立ち上げて、そこをベースに細部を仕上げ、本番、観客と合わせながら、ドライブをかけて上げていく。明大では水の演出に目がいったが、今回は、台詞も立って、しっかり役者同士も絡んでいて、いちよ(一葉)ともろは(双葉)を演じる藤井由紀が、演じ分けるでも同一でもない難しい色合いを演じて。アキヨシの姉かいちよか…変幻自在…。水が家の外をばしゃばしゃと叩きはじめた。颱風に息があるように、この水にも息があって、機械やホースの水では絶対に出せない舞台としての[煽り水]。この水は、台詞と一緒の力をもっている。役者は水に負けるかとさらにテンションを上げる。水は延々と容赦なく俳優にも家のガラスにも叩きつける。すごいな、いいな。水にざぶとん三枚!掛け声を水のスタッフにかけたくなる。舞台の流れの中で、物も水も俳優も空気も…音響も(そう音響の古いタイプのオープンリールのがしゃっという音に、間合いを計るスタッフの鬼合を感じる。ずっとずっと芝居の話をしながら、一体になって巡業していく唐組のこのコンパクトさ、親密さ…そして強い語調で言い交わされる今日の演技のそれぞれ…そうして出来上がり、磨かれていく芝居。ここにこそ演劇がある。演劇の原点がある。演劇の原点は、今、創り上げなくてはならないと感じている。コロナがあり戦争があり、大きく価値観が変わっていく[今]。演劇は再び零地点にあるのだ。原点は[今]。なにもない[今]。唐組は地べたに立っている。最大の利をもっている。[今]こそだ。

Ps。
二回目の公演を誘ってくれた樋口良澄に心から感謝したい。ボクは天井桟敷の裏ッかわで芝居を体験してきた。踊りの舞台を演出したりもしてきた。上演を複数回みるのは、袖や演出席や…つまり作る側の人間として脇や裏から見てきた。観客として純粋に複数回みることはない。自分の舞台で日々、できが違うというのは、良く知っている。その違いは役者、ダンサーのできの善し悪しとして認識するし、悪ければ改善する。それ以上のことではなかった。唐組の『秘密の花園』の上演の変化を体験できたのは自分にとっても大きな事件だ。これはある種できの変化ではなくて、存在の変化なのだ。
そしてもう一人感謝したいのは、『唐十郎のせりふ』で第32回 吉田秀和賞を受賞した、新井高子さん。この本がなければボクは、唐十郎の戯曲にこんなに興味をしめすことはなかっただろうし、唐組の芝居をこんなにじっくりと見ることもなかったろうと思う。本の力、言葉の力、戯曲の言葉を聞く力——を改めて、突きつけてくれた『唐十郎のせりふ』に感謝を述べたい。そしておめでとう吉田秀和賞。

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