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日々是徒然/松岡正剛「わかりやすさ」に抵抗がある/朝日デジタル

____________松岡正剛

だいぶ以前から、悩んでいることがあって、未だに解決の糸口さえみえない。
そうしているうちに消滅のときは来るのだから、生きているということはこういうことなのだろうなとも思う。

若い頃から、その時に旬の表現をしていた作家の傍に居させてもらうことが多かった。寺山修司、土方巽、一瞬だけどヨゼフボイス、泉勝志、折田克子、笠井叡、田中泯、そして勅使川原三郎…まだまだ挙げるときりがない。坂本龍一の『アヴェックピアノ』『TVWAR』もディレクションしながら傍にいた。

傍にいたことは偶然が大半なので、人生の生き方として自慢すべきようなことではない。
もし自慢することがあるとしたら、その時々に、この世ならぬ幻想を体験させてもらったことだ。幻想は、現実の中で、身体が生み出した、リアルなものであって、気のせいとか夢のような…というものではない。幻想ではあるが一方では現実そのものでもあった。

傍にいて見せてもらった…たぶんそれは観客席からも見えたり、体験できたりするものであったろうが…くっきりとした現実の不可思議をなんとか伝えられないか——というのが生涯の願いであって、それで『夜想』という雑誌を作ってみた、のだが、なかなか自分の体験したものを伝えることはできなかった。

雑誌でできないのだから、自分の書いたものではさらに伝わらない。書く力は全くない。そうこうしているうちに自分のしている編集作業が、さらに気持ちから離反していくような結果をもたらすようになった。
そんなこんなで、もう10年、余りなにもしないまま、ただただ悩みを深くしていた。

もうしまいも迫っているし、どういようという気持ちが募って、ふと、検索ワードに悩み言|《なやみごと》を入れて見た。トップにヒットしたのが、朝日新聞・DIGITALの『松岡正剛「わかりやすさ」に抵抗がある』だった。
https://www.asahi.com/rensai/list.html?id=2130
松岡さんは知り合いであるし、時おり呼ばれたり、原稿をお願いに行ったりくらいの関係ではあるが…傍に置いてもらった人ではない。置いてもらいたくて珍しくアプローチしたこともあったが、ある一定の距離から内側には入れてくれない人だ。表向きは同業だから、まぁしかたがないかもしれない。

あと、立ち位置が違っていて、例えば、寺山修司なら松岡正剛は対等の友だちになる。
僕が、一時期良く遊びにいっていた、ヒガシヤという茶房がある。当時、お菓子を作って名人だった馬場さんとか、お茶を淹れたら右にでるもののない桜井さんとかと知り合いになった。松岡さんは、このヒガシヤの代表の緒方さんの昔からの相談役である。「こんちゃん、馬場さんと知り合いなんだって」(松岡さん僕のことをこんちゃんと呼ぶ。世界で唯一の人だ)「はい、桜井さんとも」
松岡さんはしみじみと「現場に強いよね。僕は緒方さんだけど、こんちゃんは馬場さん。歌舞伎でも三階さんの特集するよね。僕は昔から旦那たち。」
上からでも、羨ましがっている分けでもない、クールな視点だ。

現場に凭って、そこを支えている人やものが好き。時代を作るものが成立する瞬間に立ち会うのが好き。
そんな芸術の快楽主義なんだろうと思う。自分は。

だけれども、その瞬間をどうにか伝えられないだろうかということを、この10年ずっと思ってきた。もがきながら。でも力足りないんだろうな、このまま終わるんだろうなという実感だけが、ひしひしと募っている。
ヒントは、ないわけではなかった。フランス文学の生島僚一の鏡花論で、ずれていたり、ひょっと違うことを語ったりする瞬間に鏡花の本質は読解けるというようなことを言っていた。(今、本を確かめずに書いている)生島僚一は、亡くなる最後の仕事で鏡花論をやって、最後は口述筆記だったような気がする。だけれどフランス文学を読む手法を使わずに、日本で書かれた文学に対して、真摯に向かっていた。そのことも感動的だ。

ずれたものを拾う、ずれたところに接線を入れる。
なんとなくそんなことを思っていた。
でもこれは読むということであって、それを再提示する方法ではないから…それを見つけないといけない。

朝日新聞・DIGITALの『松岡正剛「わかりやすさ」に抵抗がある』
には、生島僚一よりもさらに確信的にその方法を摑んでいるものが、語る口調があった。
この連載のインタビューは、タイトルと違って、少し別のところに踏み込んでいる。
おそらく松岡正剛はインタビューを受けながら、考え、自分のしてきたことを客観化しながら、探りながら、発見しながら語っている。(インタビュアーがたぶん、上手だったということもあるだろう)
松岡正剛が、無意識にも有意識にもやってきたことの動機のようなもの、本音のようなものを見せても良いと思ったのかもしれない。

僕がやろうとしていることは、ちょっと僕の力量では難しいということが、理由を含めて分かったような気がする。
まだ全然こなせないので、語ることはできないし、自分のラストまでに片が付くとは思えないが、

僕の、手書きのメモには、こんな風に感想が書いてある。

芭蕉が云ったように虚から実に行け。
エビデンスなしで虚実ないまぜの編集を。

この松岡正剛の言葉は、響き過ぎるほど響く。
証明を一生懸命やろうとするほど、証明をしようとする核からは遠くなるというのが、正直自分がやってきた感想でもある。大体、証明をしっかりやるとそれは読む人に受け入れられない。(自分の場合)

虚実ないまぜというのは、自分の場合、そうは行かないので、(あくまでも実の核心にたどりつくことが欲望。それが幻想に見えることも多く、それがそう見えるなら幻想として見せた方が実が伝わるのでは…と、松岡さんのインタビューを読みながら思った。
かつ実は、傍からいくと辿りつかぬものでもある。実は行為する人によってのみ成立する。

虚々実々と云う言葉があるが、配合比均等なのが気になる。松岡正剛は、配合比率均等が壺であったりする。
だけれど、自分の立場だと、虚虚実ぐらいのバランスで入らないと…そして再構築したものには、虚実実ぐらいの感じで、実が存在していると嬉しい。(いやぁちょっとできないけれど…)

このインタビューの内容はこなしきれないが…座右のものになるだろう。
このインタビューは、これまでの松岡正剛の発言やインタビューと少しトーンが違うような気がする。特に最後の部分に非常に本質的な部分が書かれている。
凄いな。松岡正剛。

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