中川多理展 白堊—廃廟苑於/はくあはいびょうえんにおいて/ドキュメント①
壁状納骨堂
廃廟苑というタイトルは、壁状納骨堂、Colombarioからの連想から来ている。
Colombarioをはじめて見たのは、ヴェネチアの墓の島・サン・ミケーレ島だったか、シチリア・パレルモの傍の修道院だったか…フィレンツェのサン・ロレンツォ教会…だったか…よく覚えていないが、心に不可思議に刻まれている。
小さなアパートのような白い建物の様な壁に、骨が収められて墓になっている。
元々、イタリアの教会は、床にも壁にも屍体を収める様な設えになっていて、信者に踏まれても教会と一体になりたい、その教会の祭っている聖人と一緒になりたいという、信仰心がある。
もう一つの連想は、シチリア・パレルモにある8000体の木乃伊が修まっている墳墓だ。ここには、世界一美しい屍体と呼ばれる幼児の木乃伊がある。その木乃伊は、sleeping beautyと呼ばれる写真にも繋がり、そうして球体関節の半眼へと影響を及ぼしている。
コロンバリオは訳せば壁状納骨堂で、昔は火葬にするまでの間の…屍体の置き場…日本で云えば殯宮のようなところだろうか…今は、墓のスペースが一杯になってしまっている教会墓地の、それでもその教会に葬られたい人のためのロッカーのような墓地ということにもなる。
コランバリオが、日本の墓の印象と違うのは、生者の匂いが濃いと云うことだ。そもそも家のような墓に葬られている人(?)は、すぐさま明日にでも生き返りそうだし、生きているように死を享受しているようにも見えるし、そういうことももあって、生きているのだか死んでいるのか…生者とともにあるのか…
中川多理が人形の素材をビスクに材料を持ち変えてから(粘土も平行してやるらしい)ずっとこのコロンバリオが気にかかっていた。3.11のあとの展示『白い海』にもどこかつながらないだろうかとも思っていた。
コロンバリオは白い壁であることが多い。独りずつ壁の函に収まっているということも人形に相応しい。
——というところまでが自分の想像の到達区域。何となく中川多理に話したこともあるかもしれないが…展覧会のコンセプトになるかどうかも、作品を作るモチベーションになるイメージかどうかもまったく分からないまま…だった。先に展示のスケジュールが決まった。元映画館と云う素敵な場所が見つかったからだ。
それだけの設定で、中川多理は、人形をつくりはじめた。
あとは、当日人形が搬入されるのを待つだけだ。作家の力量が、人形の力が場所をしっくりとした、ある幻想の場所に変えていく。