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日々是徒然2025③待機
少し大きいダメージがありそうということで、行動制限がかかった。
ベッドとトイレの間が許されている範囲。トイレは自由に行っていいよということ。
胸に24時間監視の心電図がつけられている。
精密検査は来週に本格、はじまる。
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いくつかやることが残っている。
まず第一は、今年のシーズンがまた本格化する中川多理展の構想とセッティングだ。
その前に中川多理人形教室で育った魅力的な作家のデビューを設計する。
頭は自由なので、毎日線をひいている。
もう一つが『見晴らし台』(川野芽生)の帯の草稿。『見晴らし台』は、川野芽生の評論集これまで書いたものが全網羅されている。
川野芽生は身体性、恋愛、死を排除して短歌を詠む。(刻々変わるような気もするので現在時の自分の感覚として…)で、そうであるとすると、実は、自分にとっては苦手なタイプということになる。雑誌を作りはじめた頃から、身体、オブジェを媒介にして作品を受けとめてきた。それ以外の受け止め方をしてこなかったように思う。なので、茫然とするくらい〈掴めない〉感がある。
それでも、最近、いくつかの接線をみつけたような気もするので、帯び原稿を書くのに使ってみようかと思っているが、まぁちょっと試練感はある。
身体性、オフジェ性を介してでないと作品を鑑賞できないという自分をこれからどうするか。これからもどれだけ残されているか分からないのに。
三人のお父さん、土方巽、寺山修司、ヨーゼフ・ボイスももちろん、身体を通じての理解だった。
常々、身体を意識しているわけではないが、たとえば思い返してすっと入ってくる演劇といえば、僕にはまず松本修のmodeがうかぶが、やはり身体的演劇だ。
去年、シュルツをモチーフにした舞台、素敵だった。イメージと言葉という、ま、いわば相反するものを、身体をぎりぎりまで残した状態で、コード化して相互にぶつけていく。寺山修司がやろうとしていた、身体と言語の同時表現を、進化系として実験している。まだ完成していないようにも思うが、完成していない実験状態は、見るものにはとてつもない高揚感をうむ。
自動化している身体/オブジェを介して見るをどうするか。プラスで別の見方を足すことなんてできるんだろうか?
そんなことを思いつつ明日の超精密検査に待つ。ほんのひとときの隙間。