中川多理『白堊——廃廟苑於』ドキュメント③『鳥葬声宴』川野芽生短歌朗読会
川野芽生短歌朗読会『鳥葬声宴』が終わった後の会場の床には短歌が書かれた半紙が散華されていた。まさに傷をつけられてようやくのことレスタウロされたジャヤバルマン(三島由紀夫/癩王のテラス)やヘリオガバルス(アルトー)の人形に対する散華であった。
ジャヤバルマンの傍の一枚をひろうと
月に雲 骨に肉叢 月と骨ましるに惹きあへば 肉いたむ
と、書かれてあって、[骨に肉叢]が横向きに描かれていた。
この日、『中川多理 白堊——廃廟苑於』の会場で読まれる歌は、川野芽生の人形歌集「羽あるいは骨」「骨ならびにボネ」の二冊の中から、その読んだ人形に向けて、その歌を読むという設定になっていた…はずだが、歌集二冊には書かれていない人形に対しても献歌していた。
献歌…川野芽生は歌を朗読していたのかもしれないが…僕には人形を浄化、昇華しているように思えた。中川多理の人形はどんなに酷いハラスメントを受けても、汚れない強さと美しさをもっているが、それでもやりきれないものがある。そのハラスメントを受けた身体を祓ってくれたようにも思う。
人形はただでさえ虐げられている、創作人形でも美術に入れてもらえない。
白堊——廃廟苑於の設営は、元映画館で二日間に渡って行われた。川野芽生は、その大半の時間を設営会場で過ごしていた。会場にいて、人形を見たり、時おり、人の話しを聴いたりしながらずっと時を過ごしていた。会場には歌に詠まれていない人形たちも登場した。レスタウロ(修復)が終わったジャヤバルマン3体と、ヘリオガバルスが運び込まれてきた。川野芽生が写真でしか見ていない人形が搬入されていた。設営は、ほぼ会場内で方針を決めるので、まぁまぁ切羽詰まっていた。(ほんとうに切羽詰まるとなにも降りてこなくなるので、切羽詰まっていないふりはしている)なので、川野芽生の様子は余り気にかけていなかった。余裕がなかった。見る限り、川野芽生は会場に独りで自由にしているのが好きそうだったから、放置しておいたということもある。
人形歌集Ⅱにあたる[骨ならびにボネ]の歌は、前回、bisでの展示にいた会場でほぼ作られたものだ。会場に見に来きた折りに、大きなスケッチブックに万年筆かボールペンで書いていた。つまり直しをほとんどしない、ということだ。そして歌集にはスケッチブックに書かれた順のままのシートが送られてくるのだ。何となく、今回もそんな第三人形歌集のために、歌を作っているのだと思っていた。
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川野芽生が、人形たちの間を、かつかつと跫音をさせながら、するすると抜けていきながら、歌を詠み、その書いてある半紙のような短冊のような紙をひらひらと舞わせ、また歩き、歌を詠んでいく。人形に囁くように頰寄せることもあれば、腰に手を廻すこともある。そうすると歌が出てきて歌が読まれる。今まさにそこで詠まれているかのように。
川野芽生は、かつて和歌がもっていた即時性、パフォーマンス性を短歌にもたせている。
人形の函の中からも歌を書いた半紙はでてくる。
後で聞いて見た、入れた場所は忘れないの? 忘れたらそのときのこと、探せばいいし、読まなくてもいい。確かに函を開けて空の時もあった。あなた紙を隠したのね? 川野が人形に囁いているようにも見えた。そこで起きる偶然を心から楽しんでいるようでもあった。
(このパフォーマンスを見た観客の「凄い演出だ」という記述をSNSに二、三見つけた。僕は、会場の人形設営に、若干、示唆的なことをしたかもしれないが、パフォーマンスにはまったく関与していない。『鳥葬声宴』の演出は、すべて川野芽生自身によるものだ。どんなパフォーマンスをするのか、僕はまったく把握していなかった。)
なので、川野がジャヤバルマンの膝に立てかけておいた『癩王のテラス』の文庫を取り上げ、開いて、本文を読み出した時には、少し驚いた。記憶能力の著しく欠如している自分は、『癩王のテラス』のどこを読んだのか定かでなくなっているが…たぶん…肉体と精神の件だったのではないか。
そうして、ジャヤバルマンへ歌を読んだ。それが僕が後で拾い上げた半紙に書いてある
月に雲 骨に肉叢 月と骨ましるに惹きあへば 肉いたむ
なのだ。なのだが、記憶のない自分…歌はこれだけでないかもしれないし…もしかしたら、これは読まれなかったかもしれない。言葉は貼付けになるとそれで変化がなくなるし、駄目な評論家や歌人の解釈によって、汚れていく。こうして読まれて、言葉が人形の骨/身体の近くを浮遊しているとき、歌の言葉は、ある種の自由さと大きな拡がりをもつ。ジャヤバルマンへの『癩王のテラス』の朗読と歌によって、穢され怪我された人形の身体は、浄化されたと…少し涙ぐんだ。
人形は作家中川多理の手によって、力強く回復されてはいるが、このハラスメントは広く知られて、しかるべきものだと思う。そして同情ではなく人形として正対してもらえるとありがたい。
この歌は、自分にとっては、三島由紀夫が現実の癩王のテラスに立って、月を見た(実際に見ても見なくても見た)ことに同期する。精神と肉体を分離して把握しようとして踠いた三島がこのテラスに一つの道を予感したことだろうことも写されている。癩王のテラスは月で、市谷のテラスは真昼で、自宅のテラスは…そんなことが次々に思われる。そして骨と肉叢は、中川多理の人形ジャヤバルマンであり…歌は肉に収めているが…そこも川野芽生の典型にはなっていなくて不思議感がある。かつリズムが良い。(今、思ったが川野の短歌は川野に読まれてまた魔力をもつ。朗詠調の歌がないのにも気がついた。川野は朗詠しない。少し甲高い人でないような声で読む。そして最近は、黙読でも川野芽生のトーンで川野の短歌を読んでいる。すると少し入ってくるものが異なって面白い)
その後、ヘリオガバルスの所へ行って、今度はアルトーの『ヘリオガバルス』をぱっと開けてそこを朗読した。何か不思議な感覚が自分に来た。僕は、この二冊の本を愛読しているのだが、本当に読んでいたのかどうか…。二冊とも読んだ部分はそんなに多くない。けれども自分にはない何かを掴み取っている感じを受けた。自分は少し狼狽えた。
朗読が終わった後に、川野芽生は僕とすれ違いながら、「二人は似ていますね。」と、云った。二作が似ているとは意識していなかった。その発言は衝撃的だった。でもそうかもしれないと即座に思った。だから好きなのかもしれないと。アルトーと三島、ジャヤバルマンとヘリオガバルス、二人を並べたのは川野芽生と中川多理だ。アルトーの『ヘリオガバルス』と三島の『癩王のテラス』を好きなのは僕だが、『癩王のテラス』を中川多理に頼んだときに、ジャヤバルマンと二人(実際には四人だけれども…)で上がってきた。そして展示で川野はアルトーと三島を通底させた。
摑んで…本質的なコアなところを(それは表層にある場合も多い)摑んで…人形という形にする…言葉にして拡散するように短歌にする。
それは、男達が、感覚に鈍な男達が、ロジックに頼り論じてあるがごとく構築したものとは、だいぶ離れて瑞々しく表現されている。
二人は、人形と短歌で会話をしている。それはガールズトークの様でもあるが、けっこう火花散るような会話でもあったりする。
ちなみに『白堊——廃廟苑於』の展示には、二冊の歌集からの一首に対しての返歌がある。もちろん人形の姿をしている。
僕のドキュメントをひと言だけ書くと、
僕自身は、二人の表現をただ見ているだけのディレクションであった。